思索の森と空の群青

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2015年 02月 13日

自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった——養老孟司『バカの壁』

c0131823_18193836.jpg養老孟司『バカの壁』新潮社(新潮新書)、2003年。60(883)


 版元
 先は長いです。→ 


 いまさら——と言っても昨年ですが、と言っても十分遅いですが——読みました。売れた本はすぐには読まない、という態度に出てしまいます。2003年4月10日発行、わたしの手元にあるのは「2003年7月5日 13刷」です。売れた本です。

 期せずして教育に関する記述を、具体的には“反面教師”に関わる講義内容を豊かにするような記述を、読むことができました。“反面教師”について言及する講義は、経験的に、比較的に、学生の反応が強いです(あとは「愛」について)。


 バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。
 本書で度々、「人は変わる」ということを強調してきたのも、一元論を否定したいという意図からでした。今の一元論の根本には、「自分は変わらない」という根拠の無い思い込みがある。
(194)


 この「共同体」をどの範囲に想定するか。
 何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本もそこにあって、人間は育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。そしてそれは、基本的には無償の行為なのです。(112)

 反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にない。なぜそうなったのか。今の教育というのは、子供そのものを考えているのではなくて、先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見たり、果ては文部科学省の顔を見ている。子供に顔が向いていないということでしょう。
 よく言われることですが、サラリーマンになってしまっているわけです。サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。
 ところが、教育の結果の生徒は作品であるという意識が無くなった。
(160)

 そもそも教育というのは本来、自分自身が生きていることに夢を持っている教師じゃないと出来ないはずです。突き詰めて言えば、「おまえたち、俺を見習え」という話なのですから。要するに、自分を真似ろと言っているわけです。それでは自分を真似ろというほど立派に生きている教師がどれだけいるのか。結局のところ、たかだか教師になる方法を教えられるだけじゃないのか。
 そういう意味で、教育というのはなかなか矛盾した行為なのです。だから、俺を見習えというのが無理なら、せめて、好きなことのある教師で、それが子供に伝わる、という風にはあるべきです。
(164)

学問というのは、生きているもの、万物流転するものをいかに情報という変わらないものに換えるかという作業です。それが本当の学問です。(164)


結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ(4)

そうした複数の解を認める社会が私が考える住みよい社会です。(5)

 ところが、現代においては、そこまで自分たちが物を知らない、ということを疑う人がどんどんいなくなってしまった。〔略〕
 しかし、テレビや新聞を通して一定の情報を得ただけの私たちにはわかりようもないことが沢山あるはずです。その場にいた人の感覚、恐怖だって、テレビ経由のそれとはまったく違う。にもかかわらず、ニュースを見ただけで、あの日に起きた出来事について何事かがわかったかのような気でいる。そこに怖さがあるのです。
(19-20)

 進化論を例にとれば、「自然選択説」の危ういところも、反証が出来ないところです。「生き残った者が適者だ」と言っても、反証のしようがない。「選択されなかった種」は既に存在していないのですから。(26)

 要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。組織が期待するパターンの「個性」しか必要無いというのは随分おかしな話です。(46)

 繰り返しますが、本来、意識というのは共通性を徹底的に追求するものなのです。その共通性を徹底的に確保するために、言語の論理と文化、伝統がある。(48)

 先日、講演に行った際の話です。控室にいらっしゃった中年の男性が、「私は、君子豹変というのは悪口だと思っていました」と言っていた。もちろん、実際にはそうではありません。
君子豹変」とは「君子は過ちだと知れば、すぐに改め、善に移る」という意味です。では何故彼はそう勘違いしたか。「人間は変わらない」というのが、その人にとっての前提だからです。
 いきなり豹変するなんてとんでもない、と考えたわけです。現代人としては当然の捉え方かもしれません。
(57)

 知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。(60)

 そもそも文明の発達というのは、この首から下の運動を抑圧することでもある。つまり、足で歩く代わりに自動車が出てくるというのは、首から下の運動を抑えることなのです。(100)

 また、日本は葬儀の際、もともと土葬だったのが戦後、高度成長期に一斉に火葬に変わりました。江戸時代は火事が起きるというので火葬は禁止だった。(101)

 そうした著書や講演のなかで、彼〔V・E・フランクル〕は、一貫して「人生の意味」について論じていました。そして、「意味は外部にある」と言っている。「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。(109-10)

 では、利口、バカを何で測るかといえば、結局、これは社会的適応性でしか測れない。例えば、言語能力の高さといったことです。(126)

 私が教養学部の学生のときに赤線が廃止になった。廃止になったその日に、今日で赤線が終わってしまう、というのが教室の話題になっていた。要するに、どういうものであるかというのを自分で体験してみようというのがあった。
 良し悪しはともなく、そうした類の好奇心は当然あったのです。〔略〕己の日常とは別の世界を見て自分で何か考える。こういう姿勢が当たり前だったように思います。
(169)


@研究室
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by no828 | 2015-02-13 18:33 | 人+本=体 | Comments(0)
2014年 07月 03日

ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めよう——養老孟司『唯脳論』

c0131823_19554827.jpg養老孟司『唯脳論』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1998年。161(816)


版元 → 
単行本は1989年に青土社

 人間の行動は脳の法則性に依拠するのだから、科学をするにも社会を理解するためにも、出発点は脳なのだ、という主張が展開されています。

「死(体)」の定義の困難あるいは不可能あるいは恣意性について論及しているところがあります。ここに開示されている考えは、養老の著作で繰り返し表明されています。わたしも同じように考えます。元来関心はあり、講義をするためにも考えてきたところがあります。

付記 せめて上半期中に昨年読んだ本(研究関係以外)を記録・整理してアップロードしようと密かに意気込んでいたのですが、無理でした。あと10冊弱です。もう少し昨年分が続きます。


 ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。(12)

 一般に自然科学者は、考えているのは自分の頭だということを、なぜか無視したがる。客観性は自己の外部に、つまり対象にあると思いたがるのである。〔略〕
 人文科学や社会科学の人たちは、脳と言えば自然科学の領域だと思っている。自然科学も何も、そう思っている考え自体が、自分の脳の所産ではないか。〔略〕あらゆる科学は脳の法則性の支配下にある。それなら、脳はすべての科学の前提ではないか。
(15)

脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係の問題に帰着する、ということである。〔略〕
 循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。〔略〕心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。
(28)

 では、なぜヒトは、脳つまり「構造」と、心つまり「機能」とを、わざわざ分けて考えるのか。それは、われわれの脳が、そうした見方をとらざるを得ないように、構築されているからである。唯脳論は、そう答える。これは逃げ口上ではない。生物の器官について、構造と機能の別を立てるのは、ヒトの脳の特徴の一つである。(30)

また、解剖学実習で、「肛門だけ」切り取って重さを測れ、と言われた学生は、よく考えると、往生するのである。よく考えない学生なら、周囲の皮膚を切り取ってくるであろうが、それはもちろん、ダメである。肛門に重量はない。なぜなら、肛門に「実体」はないからである。これはいわば、消化管の「出口」である。(31)

 われわれの脳は、いつも同じものではない。絶えず変化しているのである。脳が世界を造っているにしても、それはつねに変る。哲学者がそれが嫌で、静止した、永遠の真理が欲しいと言うのであれば、死ねばいいのである。私がその脳を頂いて、保存してさしあげよう。(40)

〔略〕私の意見では、構造と機能とは、われわれの「脳において」分離する。「対象において」その分離が存在するのではない。(44)

 私が言いたいことは、死体の定義は、いまだ相変らず、明瞭ではないということである。「機能が不可逆的に回復不能になる点」を死の時点とする。そうした定義を作ってみても、後に述べるように、すでに胎児にすら、プログラム化された細胞死が中枢神経系の中においても存在している。われわれの脳は、ひょっとすると、細胞死によって機能を確保している。その可能性すら、いまでは議論されているのである。いずれにせよわれわれは、この世に生じた時点から、死に向かって、すなわち「不可逆的な機能の喪失に向かって」、一本道を歩いている。右のような死の定義によるとすれば、その一本道の、いつの時点で「死」を定義したところで、論理的には差し支えないようなものである。(45-6)

「脳死を死と定める」場合の問題点は、ここにある。つまり、脳が死ぬことが個人の死であるならば、逆に、脳だけを救えばどうか。個人の生命を救うことが医学の目的であるとすれば、医者が「脳だけを救う」という目的に向かって、努力を集中しないという保証がどこにあるか。(60-1)

 教えなければならないということは、計算のような能力には、後天的な部分がかなり含まれている、ということである。言語の研究家は、言語の基礎には、ある構造があるという言い方をする。その構造は、私はじつは脳の中にあると思っている。構造主義における構造とは、しばしば脳の構造に他ならない。もっとも私は、その構造の存在を「前提」にしているわけではない。「教え込まれる」ことと、「基礎構造の成立」とは、同時に起こる過程かもしれないからである。ウィトゲンシュタインに言われるまでもない。(76)

動物の行動は、程度の差こそあれ、合目的的である。なぜなら、行動はそうなる(見える)ように進化してきたからである。脳の進化はその延長線上にある。なぜなら、脳は行動を支配し統御するように進化してきたからである。われわれの脳は、それをついに「目的論」として表明するようになった。(228)


@研究室
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by no828 | 2014-07-03 20:10 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 11月 19日

骨になったっていまだに死んでないじゃないか——養老孟司・吉田直哉『対談 目から脳に抜ける話』

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養老孟司・吉田直哉『対談 目から脳に抜ける話』筑摩書房(ちくま文庫)、2000年。166(626)

単行本は1994年に同書房より刊行。

版元 → 


 ここのところ余裕があまりなく、自分で文章を立ち上げられません。本のレビューが続くのはそのためです。コメントへの応答ができないという不義理が続きますのもそのためです。ご容赦を。 

養老 〔略〕目的性ということが一体どこから出来たか、どうしてもこれは、まず「時」が入ってます。時を先取りしないと目的はそもそも成り立ちませんから。〔略〕何々のために、という説明がどうして非科学的だと言われたかということなんですけど、よく考えてみますと、目的論というのは、一つまずい点があるんですよ。それは、状況が予め前提にされているということなんです。進化の過程なんか考えますと、世界がどうなるかということを生物は知らないわけです。知らない世界に合わせるというのは、事実上意味をなさなくなっちゃうわけですね。それで常に後知恵として環境に適応しているというふうに言うんですけど、これはあくまでも後知恵であって、その時の生物の立場になってみると、何が良いか悪いかということはわからないわけですよね。(73-4)

養老 もしそういう手術を真面目にやると、失敗します。私もインターンの時、八時間の手術についたことがありますけど、実は手術の失敗って、思わぬところに穴があるんですね。一番基本的なことに気が付かない、人間ってのは一生懸命になりゃいいってもんじゃないですね。何回もやった方はご存じかと思いますが、一生懸命になってる時に何かポカッと落ちてるんですね。(150-1)

養老 そうですね。「生きてる」って言い方はおかしいですけど、生きてた時にもってる機能をいまだに保存しているという意味では、保存しているわけですから。骨になっても死んでるんじゃないってのは、つまりある種の機能は残ってる、つまり支持する機能は残ってるわけですね、硬さという。それを思えば「骨になったっていまだに死んでないじゃないか」って言えば、死んでないところはあると。歯なんか典型的にそうですね。(165)

吉田 「アインマル・イスト・カインマル」——たった一回の実験結果はつまり無かったに等しい——ドイツ語でそう言うのが私の父の師の佐々木隆興先生の口ぐせで、父にとって最も肝に銘じたモットーだった、ということを思い出しました。(176)

吉田 それと同じようにおれはだめだって自分の方から出ていける組織が人体にあるとして、吉田はいやだから養老さんの方に行きたいとかいう、何かこれはオカルト的ですけれども、臓器が意志をもって、こっちは移植してると思ってんだけれどもむしろ臓器が叫んでるんじゃないか、ほかへ移って生きたいと。だから臓器移植という手術を、みんながやりたくなるし、やらなきゃいけないと思ってるし、いろいろ問題が起こってくる事態になってるんじゃないか、と思うんです。アナロジーですけれども……。
養老 面白いですね。実感がわいてきますね。
(236)

養老 〔略〕科学の世界像っていうのは、常に固いように見えますけれど、よく見れば決して固くはないですね。グチャグチャです、あんなものは。(238)


@研究室
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by no828 | 2012-11-19 14:21 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 31日

科学はどこにあるか、科学を出して見せてくれ——養老孟司『カミとヒトの解剖学』

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157(617)養老孟司『カミとヒトの解剖学』筑摩書房(ちくま文庫)、2002年。

版元 → 

単行本は1992年に法藏館より刊行。


 実験や観察による「事実」を根拠に物事を主張する科学、と宗教との同型性。科学を宗教的に処遇することの危険性。わからないことは、やはり、わからない。

 私は、根本的には、存在するものは個人しかない、と思っている。国や社会や組織があることは、とりあえず認める。しかし、それはあくまでも人間の約束事である。だから、時代によって変化する。そればかりではない。所詮作りものだから、人間側の都合次第で、年中変化する。〔略〕
 人間そのものはどうか。教育次第でたしかに変化する。しかし、遺伝的にはほとんど変わらない。少なくとも現代人と呼ばれる種類の生物は、ここ五万年ほど、解剖学上はほとんど変化していない。
(16)

 西欧における宗教と自然科学は表裏の関係にある、という指摘のあとに。
 宗教であれ、科学であれ、なんらかの合理性を扱う以上は、論理整合性という要求と、現実との適合性という要請の、二つを満たさなくてはならない。これをまとめて、合理性と呼ぶらしい。つまり、論理整合性とは、脳の中の合理性である。脳内の回路に、余計な分岐や、無関係な筋道が入っていない、ということである。現実との適合性とは、脳と外界との一致、不一致である。脳内でいかに能率のよい回路を組んだとしても、現実に応用できなければ、宝の持ち腐れである。外界の事物を対象に、この点を解決しようとする方法が、自然科学であろう。他方、宗教はヒトとその社会を対象として、同じことをやろうとする。(33)

 養老先生のは科学ではない、と言われた(批判された)ときに。
〔略〕相手は、科学というのは唯物論的であり、しかも抽象普遍性がある主張する。だから私は、すこし意地が悪いと思ったが、それなら「科学はどこにあるか、科学を出して見せてくれ」といった。唯物論者なら唯物論者らしく、抽象普遍だの科学だのという「ものでないもの」の存在を信じなければいい。現に読めるのだから、私は論文の存在は信じる。現に目の前にいるのだから、科学者の存在も信じる。しかし、目の前に出してくれなきゃ、「科学」の存在は信じない。そういう私の方がはるかに「実証的」「科学的」ではないか。(41)

 すべてのヒトは、異なった人生を歩む。したがって、すべての死は異なっている。すべての生が異なっているように。だから、明らかなことが一つある。死の観念を統一しようとする試みは、どこか誤っているのである。そこでは、私は、極端な個人主義者である。(80)

墓の形式に強い必然性はない。それが墓だという約束事さえあれば、どのような形でもとり得るという意味において、墓はまさしく抽象である。
 抽象とはなにか。それは頭の中の出来事である。頭の中の出来事というのは、感情を別にすれば、つまりはつじつま合わせである。要するに頭の中でどこかつじつまが合わない。そこで頭の外に墓が発生するわけだが、どこのつじつまが合わないかと言えば、それは昨日まで元気で生きていた人間が今日は死んでしまってどこにも居ない、そこであろう。だから墓というものを作って、なんとかつじつまを合わせる。
(99)

 不気味さは生首の性質ではない。じつは主体、すなわち見る者の判断である。それを、しかし、対象すなわち生首の属性と考える。ここに差別が発生する心理的な要因がある。生首は文句を言わないから、これは現実の社会的差別にはならない。しかし、相手が生身の生きた人間であり、その人に、その人の属性ではないものを属性として押しつける。押しつけた意識は、押しつけた当人にはない。その場合、押しつけられた側は、そこで「差別された」と感じるのである。(258)


@研究室
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by no828 | 2012-10-31 17:04 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 10月 18日

学問を支えるのは今も昔も「個人」である。真の学問の自由がそこから生じる——養老孟司『からだの見方』

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153(613)養老孟司『からだの見方』筑摩書房(ちくま文庫)、1994年。

版元 → 

単行本は1988年に同書房より刊行。


 前にも書いたかもしれませんが、わたしが養老孟司を信頼するのは、養老がわからないことについてはきちんと「わからない」と書くからです。

 私は中学、高校を通じて、幸か不幸か、イエズス会の学校で教育を受けた。キリスト教そのものは、私にとって関心外だったから、当時から知らぬ顔を決めこんでいた。しかし、この頃に受けた教育が、なにやら自分に影響しているらしいと気がついたのは、すでにひと昔前、不惑に近づいたころのことである。以来いまもって、特定の宗教に帰依しているわけではないけれども、こころや身体について考えるときに、どこかで宗教的な観点にも考慮を払っていることに気づく。宗教の存在がどうも意識から抜けない。だから、解剖学のように「こころ」や「身体」、そして「死」を考えざるを得ない、妙な職業についたのかもしれない。(「脳とこころの並行関係」92)

 わたしは幼稚園がキリスト教で、そのあと小4から中3までその学校に付設された英語学校へ通っていました。その影響はまさに身体に浸透していると、自分に対する認識が深まれば深まるほど、自覚の度合いが進めば進むほど、感じます。

〔略〕科学は本質的には正当化を求めない。むしろつねに訂正を求める。(「脳とこころの並行関係」101)

 哲学は正当化を求めます、というより、正当化をするのも哲学の役割です、と言ったほうがよいかもしれません。

つまり、究極的に物事がわからないからといって、それについて考えないというのなら、別段なにごとであれ、とくに考える必要はない。〔略〕問題は「どこまでわかるか」であって、問が解けるか否かではない。ここは究極を問題とする宗教や哲学と、自然科学、あるいは経験科学の違うところである。(「脳とこころの並行関係」102)

 分類とは、事実が先にあって、ヒトがそれをある見方で整理するものである。だから、分類は、あくまでも事実の見方の問題であって、真理の問題ではない。(「医学における分類・整理」127)

 理屈にならないと決めた時から、当たり前の話だが、もはや理屈にはならない。ほんとうは、理屈にする気が無いだけのことである。理で詰めようとすれば、まだ詰まるかもしれない。何事も、やってみなければわからない。(「色気の論理」156)

 研究というのは、のんびり着実でなくては、成果が出ない。(「メスの刃先」171)

 わたしはつんのめって研究してきたきらいがありますが、そうではないあり方もあったはずだと最近強く感じています。これからはその「そうではないあり方」、つまり「のんびり着実」という側面をきちんと意識して研究を進めていきたいと考えています。

 個性を尊重するのは、真の個性がまれだからであろう。しかし、人は一人ひとりみな違う。それが見えないのは、見る目がないせいかもしれないのである。(「メスの刃先」176)

 学問を支えるのは、今も昔も、本当は「個人」である。真の学問の自由がそこから生じる。だから私は、できるだけ個人のお金で研究をしたい。そう望んでいる。第一、私の研究がなんの役に立つのか、本人にもよくわからない。それでむやみに税金を使ったのでは国民に申しわけない。(「学問とお金」200-1)

 個人のお金で研究せざるをえないわたしはこの意見に共感するところ大であります。自腹を切ることは大切です。というか、自腹を切るほどにそれは自分にとって大切なことなのか、という自問を常にしなければなりませんから、感度が上がります。

つまり、自分として良い考えだと思うものが浮かぶときは、どういう考え方をしているか。それはつねに、ごく素直に考えた時である。良いことを考えようとか、独創的な思い付きはないだろうかとか、そういうことははじめから考えていない。興味のある問題について、論理の筋をただ素直に追っているのである。(「これを楽しむにしかず」236)

 「独創的な思い付きはないだろうか」という構えでは、たしかに独創的な思い付きはできません。(経験則)


@研究室
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by no828 | 2012-10-18 16:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 04月 16日

生死は自然の現象である。理屈ですべてわかるというわけにはいかない——養老孟司『解剖学教室へようこそ』

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61(521)養老孟司『解剖学教室へようこそ』筑摩書房(ちくま文庫)、2005年。

版元 

※ 本書は、1993年に同書房よりちくまプリマーブックスとして刊行。


 信頼できる知性。「わからないことがある」と言える学者をわたしを信頼します。
 
 そういうわからないもの、人が作ったわけではないもの、それを自然という。人のからだは、自然である。だから、からだは、根本的には理解できないものに属する。車なら、作る人に、ある「つもり」があって作っている。ちゃんと動かなくてはならない。すぐ故障しては困る。走る機械なのだから、それなりにさまざまな装置が必要だ。
 からだのほうは、そこがはっきりしていない。なんのためか。まずそれがわからない。車なら走るためだが、人のからだは、なんのためにあるのか。いくらでも説明はできるが、その説明に終りはない。どの説明も不十分である。こう言われると、困ってしまうであろう。えらい人にきいたら、なんでもわかっているんじゃないか。そうはいかない。どんなえらい人でも、よくわからないところが必ずあるもの、それが自然なのである。人のからだは、その自然である。
 生死は自然の現象である。だから、それは、理屈ですべてわかるというわけにはいかない。
(51)

 人は死んだら、モノか。それは違うと言った。なぜか。
 モノだと思えば、生きているうちから、モノである。なぜなら、そもそも場所をとる。体重がある。だれかにぶつかると、壁にぶつかったのと同じで、通りぬけるわけにはいかない。こういうことはすべて、モノすなわち物体の特徴である。それなら人は、生きているときから、物体としての性質を持っている。死んだ後も、その性質にはまったく変わりがない。それだけのことである。死んだから、急にモノになった。そういうわけではない。
(52)

 だから、「頭」という名をつけると、そこで「境」ができてしまうのである。「境ができる」ということは、いままで「切れていなかった」ものが「切れる」ということである。〔略〕からだは自然にできたのではないか。だから、言ったでしょう。自然に起こることは、たとえ生死であっても、その境は、簡単には決められませんよ、と。
 それを簡単に「切ってしまう」のは、だれか。「ことば」である。名前である。ことばができると、つながっているものが切れてしまう。ことばには、そういう性質がある。
(60)

 だから、人間の作った機械を、なにか人間とは特に違ったものと考える必要はない。人間とは違ったものだ、という気がするのはたしかだが、それは君たちが、たとえば切り取った手を一本置いてある、そういうものを見たことがないからである。自分の手を切りと〔ママ〕って、それを机のうえに置いておく。それが「自分の一部」だと、思えるだろうか。もともと自分の一部だったのに、そうして置いてあるとすると、自分の一部とは思えない。でもそれは、じつは「そう思えない」だけのことなのである。手であれば、切り取ってすぐなら、もとにもどすことができる。そうすれば、また自分の一部になるのである。(194)

 
 ちなみに(何にちなんでいるのかよくわかりませんが)、『ターヘル・アナトミア』というタイトルの本はないそうです。「ターヘル」はオランダ語・ドイツ語、英語の「テーブル」、すなわち表、図表。「アナトミア」はラテン語で「解剖」。この2つを杉田玄白らがくっつけた、いわば通称のようなものらしいです。
つまり、玄白の時代には、すでに西洋の学問を取り入れることができるだけの用意が、江戸の社会にできていたのである。五十年前であれば、そんな西洋の学問など、とんでもない。そう言われてしまったかもしれない。それだけではない。そういうことを言う社会には、そもそも玄白のような人は、生まれなかったのである。(102)



@研究室
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by no828 | 2012-04-16 11:55 | 人+本=体 | Comments(0)
2012年 04月 06日

それを定めるもの、それを古人は「学問」と呼んだらしいのである——養老孟司『脳の見方』

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54(514)養老孟司『脳の見方』筑摩書房(ちくま文庫)、1993年。

版元 → 

※ 単行本は1986年に『脳の中の過程』として哲学書房より刊行。


 先日、養老孟司の本が何冊かずらっと105円の棚にあったのでごそっと買ってきました。「人の心に働きかけるには、心から出たものでなくてはならない」という言葉をわたしも聞いたことがありますが、これはゲーテの『ファウスト』が出自のようです。ちなみに、ゲーテとわたしとは誕生日が一緒です(ゲーテはわたしよりも232年前に生まれたわけでありますが)。

 しかし、ここで頑張って日本語で書かなくては、いつまでたっても、自然科学に日本語は定着しないであろう。しかし、現に英語で間に合っているのだから、そう肩肘張ることもなかろう、という気もする。もはや、ここでは、母国語で書くことの方が、無理難題になってきているのである。これを、フーコーなら、何といったであろうか。(53)

 養老は、言語、言葉にかなりこだわりを見せています。言語構造が思考に与える影響、と言いますか。
 余計なお世話だが、わが国の学問に必要なものは、諸学の学、つまり単なる学問であろう。この国にはもともと、学問はそれしか無かった。あとは「専門家」がいた。「専門家」とは何か。それはその道で飯の食える人である。私も何とか、解剖学で食べている。学生には気の毒だと思うが、致し方ない。残りの分が学問である。これは、いわば、いつでも「余計物」である。「町人に学問は要らぬ」ものである。つまり、専門家にとって、「学問」とは、所詮その足を引っ張るものにすぎない。
 ただ、工学ではどうか知らぬが、生物学では、こういう足の引っ張りを、フィード・バック機構という。長い時間の進化に耐えた機能は、つねにこうしたフィード・バック機構を備えている。いちばん安上がりなフィード・バック機構は、その体系の内部にフィード・バック機構を組み込むことである。生物を見るとつくづくそう思う。
 科学もまた、生物の作ったものである。同じ原理が働かないわけがなかろう。専門分化につける薬、つまりフィード・バックは、やはり学問しかない。それは単に、他人様のご意見を伺う、ということの延長にすぎないのである。
(40-1)

 もともと私は解剖学が好きだったわけではない。間違って始めた。
〔略〕
 やってみると際限がない。仕方がないからいまでもやっている。乗りかかった船でもう止められない。今年でとうとう、二十二年になる。いまだによくわからない。
 ではつまらないかというと、面白い。ここ十年くらいは面白くて仕方がない。しかし、学問というのは、面白いから業績があがるというものでもない。頭が痛い。それに、だんだん暇も無くなる。たとえば、こういう用事〔エッセイを書くなど〕で時間を取られるのがいちばん困る。
 それなら断ればいい、と他人は気軽にいうが、第一、私には断り方がわからない。注文の断り方は、学校では、一度も教わらなかった。以後大学から外に出たことがない。ゆえに、相変わらず習う機会もない。それに、解剖学研究のため、雑事は一切お断り、というほど解剖学を尊敬しているわけでもない。
 以前は、学問を尊敬している人が、今より多かったように思う。学問を尊敬すると、ちょうど偉い人の前に出た時のように、手が震えたりする。そうすると、実験をするのも、論文を書くのも、あまりうまくいかない。だから、私はある時から、解剖学を尊敬するのを止めにした。
(75-6)

 要するに、どの社会の尺度で計っても、私は半端者だと言わざるを得ぬ。出来合いの尺度で計る限り、半端者であることを免れないとすれば、自分の物差しを作るより仕方がない。もっとも、学問というのは、元来は自分の物差しを作るものである、という気もする。森羅万象ことごとくを自分の物差しで計るとなると、これは大変である。時間はいくらあっても足りない。その故か、最近は特に忙しいような気がしないでもない。(215)

 ただ、われわれもそろそろ、物差しはむこうにあずけっぱなし、作品だけうまく作れば良い、という態度は卒業すべきであろう。善悪好悪の判断を定めるのは、大人にとって、じつは案外むずかしい。何が「創造」であり、何が「模倣」であるか。それを定めるのもまた、その物差しである。それはおそらく科学でも技術でもないものであろう。それを定めるもの、それを古人は「学問」と呼んだらしいのである。(247)

 応援を得たような気がします。物差しを作っていきます(壊しながら)。
 ものが理解できない状態を、私は「馬鹿の壁」と呼ぶ。数学は、私の「馬鹿の壁」に突き当たって敗れた。「馬鹿の時代」こそ情報化時代の最大の難点である。
〔略〕
 近年、哲学が流行するような気がするのは、このためかもしれない。哲学はかつて一度、意識せずして「馬鹿の壁」に挑戦し、一敗地に塗れた。捲土重来を期す。それが、哲学に対する期待の中に、無いとは言えまい。
 私が、哲学に試みてもらいたいのも、まさしくそれである。つまり、「馬鹿の壁」を何とかすることである。それは医学の問題だ、とボールが帰って来そうな気もするのだが。
(239-42)

 西洋には、ペディキュアという職業がある。西洋人は年中靴を履いている。家の中でも履く。脱いでいる時間も短い。だから、ウオノメその他、足のトラブルが多い。そうしたトラブルを治療するのが、ペディキュアの役目である。わが国でふつうそう思われているように、「足のマニキュア」(ペディスはラテン語の足、マーヌスは手)のみがペディキュアの仕事ではない。日本人はゲタやゾウリを履くばかりでなく、靴を脱いでいる時間が長いこと、足指の長さが指によってあまり極端に違わないことなどから、足のトラブルが少ない。そのためか、ペディキュアなどという「足の床屋」みたいな職業が成り立たない。(193)



@研究室
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by no828 | 2012-04-06 15:52 | 人+本=体 | Comments(0)