思索の森と空の群青

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2018年 02月 22日

他人が何を信じようと信じまいと、相手がまっとうな人格であるかぎり誰に対しても悪意を抱かないというのが僕の信条である——サローヤン『僕の名はアラム』

 ウィリアム・サローヤン『僕の名はアラム』柴田元幸訳、新潮社(新潮文庫)、2016年。31(1098)

 原著は1940年

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 ユーモアの溢れた短篇集。著者はアルメニア系アメリカ人。学類のときにアルメニアからの留学生のチューターをしていたから、というのも本書を手に取った理由のひとつ。

70)僕たちはしばらく果樹園を歩き回ってから、車に戻っていった。僕たちは車に乗り込み、町に帰った。僕たちは何も言わなかった。言うべきことはものすごくたくさんあって、それを言える言語なんてありはしなかったのだ。 ※「ザクロの木」

122)その晩、爺さまはディクランを呼び寄せ、お前の演説を聴いたぞ、と言った。あれはあれでいい。お前は何百万人もが死んだ戦争の話をしたようだな。戦争が無駄に戦われたのでないことをお前は証明したようだな。わしとしても悪い気はせん。そういう壮大な、美しい発言は、十一歳の子供の口からのみ出てくるに値する。自分が言っていることを本気で信じている者の口からのみ出てくるに値するのだ。大人が言ったら、その言葉の恐ろしさがさすがに耐えがたくなってしまう。本から世界を探求する営みを続けるがいい、お前が努力を怠らず目も持ちこたえるなら、六十七歳になるころにはきっと、その言葉の恐ろしい愚かさがわかるはずだ——今夜お前自身によってこの上なく無邪気に、かくも純粋なソプラノの流れに乗って口にされた言葉の愚かしさが。 ※「僕のいとこ、雄弁家ディクラン」 ※傍点省略

146)いまでは大半のアメリカ人同様、自分の宗教を含めてすべての宗教を信じ、他人が何を信じようと信じまいと、相手がまっとうな人格であるかぎり誰に対しても悪意を抱かないというのが僕の信条である。 ※「長老派教会聖歌隊の歌い手たち」

226)人はいつも、言葉なしで喋ってるのよ。
 じゃあ言葉なんて何になるの?
 たいていは大して役に立たないのよ。たいていはほんとに言いたいことを隠すか、知らせたくないことを隠すかしかできないのよ。
 ※「哀れな、燃えるアラブ人」


@S模原

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# by no828 | 2018-02-22 21:53 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 21日

人生でつらい出来事を経験し、悩み抜き、それを乗り越えたにもかかわらず「これからも自分は悩み続けていくだろう」と答えていたからです——水野敬也『顔ニモマケズ』

 水野敬也『顔ニモマケズ——どんな「見た目」でも幸せになれることを証明した9人の物語』文響社、2017年。30(1097)


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 新刊を購入。共生とか多様性などについて考えるために手に取った。誰もが生きやすい社会というのはありうるのか。少なくとも誰かがとても我慢するのではない、誰もが少しずつ我慢する社会とは、具体的にどう設計できて、どうすればそこに近づけるのか。そこで教育はどのような役割を担うのか。それは「お前には未来がない」と教師が言うような教育ではまずはない。

14-5)中島 うーん。〔顔の症状を〕受け入れてはいないのかもしれない。今でも、この症状が無かったらと思うことはあります。その意味では、受け入れるというより、折り合っていくという表現が近いかもしれません。たとえば、「あきらめる」は、言葉としては良くないかもしれないけど、「あきらめちゃいけない」と思えば、手術しなければいけなくなる。しかし効果的な手術はない。これは苦しい状態です。

15)中島 ずっと相談に乗ってくれていた看護師さんがこう言ったんです。「君は、いつも自分のことばかり気にしてるけど、君を大事に思ってくれている人のことを考えたことはあるの?」と。かなり厳しい口調で言われました。その言葉の意味は——当時、私は自分の顔ばかりを気にしていましたが、それ以外の部分の良さを認めてくれる人たちも周りにたくさんいて、その人たちの気持ちに応えることも考えなさいということだったと理解しています。

18)中島 逆に、家の中にいると、どうしても意識が自分に向いてしまいます。苦しいなぁとかつらいなぁとか、そういう部分ばかりに目がいきますよね。するとどんどん気持ちが沈んでいってしまいます。だから外に出て、「ああ、自分はこういうものが好きなんだ」と夢中になれる対象を「外に見つける」ということが大事だと思います。だから私は、見た目に症状があったり、外見に自信のない人こそ、外に出てもらいたいし、経済的な余裕が許せば、ぜひ海外にも行ってもらいたいと思います。

60)泉川 自分が気にしていることも、周囲の人は違う風に見ていたりしますよね。自分の自分に対するフォーカスと、他者の自分に対するフォーカスはズレているものだと気づくことで目のことは気にならなくなっていったんだと思います。

71)泉川 ただ、僕は最近、自分がこの症状を受け入れていることが嫌なんです
——といいますと?
泉川 昔は、こうやって目の話をするのはあまり好きじゃなかったんです。でも、最近は「何でも聞いてくれ」という感じになってしまっていて……それはある意味で「症状を受け入れた」と言えますが、同時に、弱くなっている自分も感じています。
——その考えは面白いですね。ただ、今の自分を受け入れないということは、ずっと悩み続けることになると思うのですが……。
泉川 それで良いと思います。僕は、悩みが無くなることよりも、弱くなることが嫌なんです。

143-4)三橋 私には「将来への不安」というのがずっとあったんですね。自分のような症状を持っていたらちゃんと就職することもできないだろうし、いつかまともに働けなくなって生きていけなくなるんじゃないかという、そういう不安がいつも頭の片隅にありました。ああ、そういえば……小学生のころに、教師から「お前には未来がない」ということを言われたんです。顔にアザがあることを理由に「他の生徒とは違って、お前には未来がない」と。もちろん、その教師の言葉だけが原因というわけではありませんが、幼少期から、将来への強い不安を持っていました。

151)三橋 これは私がいつも考えていることですが、「顔のアザが相手に不快感や違和感を与えるのは仕方がない」ということです。そして顔のアザは私には変えることができない。しかし、そのあとの会話や行動で印象を変えていくことはできます。いつもそういう考えで面接に臨んでいました。
——営業の仕事をする上で顔の症状はどのような影響を与えていますか?
三橋 その質問に答えるのはなかなか難しいですね。もし営業でうまくいかないことがあったとして、それをどこまででも顔のせいにできてしまいますから。でも実際は、ただ私の会話の能力が低かったからなのかもしれません。

153)三橋 要は、コミュニケーションを取ることで「普通の人」だと理解してもらうことが大事だと思うんです。お互いに会話がないから必要以上に恐れられてしまう。でも、会話をしてみたら「ああ、なんだ、他の人と同じ人じゃないか」と理解できます。その状態にできるだけ早く進むように工夫しています。だから相手が子どもの場合は、ジャンケンをきっかけにコミュニケーションを取ることもありますね。
「他の人と同じ」だということを分かってもらうことは、私のような見た目を持つ人間にとってはすごく大事なことだと思います。顔に症状がある人を見たことがない、ましてや話したことがないから、みんな不安になって、攻撃したり排除しようとしてしまう。でもこれは、見た目の問題というより、コミュニケーションの問題なんです。
 だから、私は、先ほど自分のアザをメイクで隠さない理由として「メイクをしても隠せない部分がある」という言い方をしましたけど、実はもう一つ理由があって……それは、世の中の人が私の症状——血管腫に少しでも「慣れ」てもらえたらいいなという思いがあるんです

200)(どうしてこんなにも心が揺さぶられるのだろう)
 そのことをずっと考えていたのですが、すべての人の話を聞き終わり、内容をまとめていたときにその理由が分かった気がしました。それは彼ら・彼女らは人生でつらい出来事を経験し、悩み抜き、それを乗り越えたにもかかわらず
「これからも自分は悩み続けていくだろう」
 と答えていたからです。
 ※「おわりに」


@S模原

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# by no828 | 2018-02-21 22:23 | 人+本=体 | Comments(0)
2018年 02月 20日

今日は実験だから、適当に座って五人で一斑を作れ。先生が何の気なしに言った一言のせいで、理科室にはただならぬ緊張が走った——綿矢りさ『蹴りたい背中』

 綿矢りさ『蹴りたい背中』河出書房新社、2003年。29(1096)


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 手元にある単行本は2004年4月20日195刷発行。195? と思って奥付に目を近づけた。間違っていなかった。

 本書の主人公は高校生。K玉先生が教育における教師の権威についての文脈で本書に言及していたことがある。たしか、以下最初の引用箇所。

4-5)今日は実験だから、適当に座って五人で一斑を作れ。先生が何の気なしに言った一言のせいで、理科室にはただならぬ緊張が走った。適当に座れと言われて、適当な所に座る子なんて、一人もいないんだ。ごく一瞬のうちに働く緻密な計算——五人全員親しい友達で固められるか、それとも足りない分を余り者で補わなければいけないか——がなされ、友達を探し求めて泳ぐ視線同士がみるみるうちに絡み合い、グループが編まれていく。どの糸が絡み合っていくか、私には手に取るように分かる。高校に入学してからまだ二カ月しか経っていないこの六月の時点で、クラスの交友関係を相関図にして書けるのは、きっと私くらいだろう。当の自分は相関図の枠外にいるというのに。唯一の頼みの綱だった絹代にも見捨てられ、誰か余っている人いませんか、と聞かれて手を挙げた、あのみじめさ。せめて口で返事すればよかった。目をぎょろつかせながら、無言で、顔の高さまで挙手した私は妖怪じみていただろう。もう一人の余り者も同じ卑屈な手の挙げ方をしていて、やるせなかった。この挙手で、クラスで友達がまだ出来ていないのは私とそのもう一人の男子、にな川だけだということが明白になった。

16)頭の尾っぽを振りながら、絹代は机を囲んで大騒ぎしている雑草の束のもとへ走っていく。どうしてそんなに薄まりたがるんだろう。同じ溶液に浸かってぐったり安心して、他人と飽和することは、そんなに心地よいもんなんだろうか。
 私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない、不毛なものだから。中学生の頃、話に詰まって目を泳がせて、つまらない話題にしがみついて、そしてなんとか盛り上げようと、けたたましく笑い声をあげている時なんかは、授業の中休みの十分間が永遠にも思えた。自分がやっていたせいか、私は無理して笑っている人をすぐ見抜ける。
〔中略〕絹代は本当はおもしろい時にだけ笑える子なのに、グループの中に入ってしまうと、いつもこの笑い方をする。あれを高校になってもやろうとする絹代が分からない。

139)「オリチャンに近づいていったあの時に、おれ、あの人を今までで一番遠くに感じた。彼女のかけらを拾い集めて、ケースの中にためこんでた時より、ずっと。

@S模原

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# by no828 | 2018-02-20 22:37 | 人+本=体 | Comments(0)