「選択」とは何か、という問いがわたしのなかで大きくなっている。
山本理奈「<選択の主体>とアポリアの構図 ―女性と胎児の相克性をめぐる問題構成の社会学的分析―」(『思想』第1019号、2009年3月、pp. 193-213)より引用。
「
妊娠した女性は、“産む/産まない(=生/死)”という選択肢が与えられたとき、同意書という形式を経ることによって、どちらか一方を自由に選ぶことができる。しかし彼女は、その選択肢の与えられ方それ自体を、選ぶことはできない。むしろ本当に問題にすべきことは、彼女にとって所与の前提である、この選択肢の与えられ方のほうである。いいかえれば、選択の自由を確立することよりはむしろ、このような選択を迫られることそれ自体から自由になることこそ、より本質的な問題とすべきなのではないだろうか」(p. 204)。
「選択を迫られることそれ自体から自由になる」とはどういうことかを、この文脈を外して教育学側に引き付けて考えてみる必要がある。われわれは選択せずには生きてはゆけないし、子どもその他の他者に対して選択肢を提示せずに生きてゆくこともできない。教育とはそもそも選択肢を提示する営みである。だから問いは、どのような選択肢の提示の仕方であればよいか、ということになると思うのだが、それに内実を伴うかたちで答えを出すのは難しい。
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