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思索の森と空の群青

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2009年 05月 19日

共生――それは来たるべきもの、そして面倒くさいもの

 暑い日が続く。

 某申請書の件で、昨日そこまでよくは存じ上げない他大学の先輩にメイルでアドバイスを求めたところ、快く応じてくださった。少し長めの激励の文章も添えてくださった。こういうの、ありがたい。涙出てきそう。

 午前中のうちに某申請書の件でいろいろ電子メイルを送る。それから、明日20日(水)必着の学会発表要旨を仕上げ、学内郵便局まで歩いて速達で出す。電子メイルにしてほしい、あるいは少なくとも消印有効にしてほしい。

 明日20日(水)はもう1件、別の学会発表の申込みがある。これは電子メイルでタイトルのみ送信。この学会発表をするかどうか悩んだが、私淑する先生に相談したところ、「博士論文にも大いに関連してくるのだから余分な負担にはならないはずだ、ぜひやりなさい」とメイルをいただいた。わたしも「博士論文に集中するために発表しない」という考えが過りながらも、発表したほうがよいのかなと思っていた。相談したのはたぶん背中を押してもらいたかったから。いろいろ理由を付けてやらないことはできるけれど、そういう態度は何かしっくりこない。

 とりあえずタイトルだけ考えなければ!

 
 ちなみに、さっきまで「共生」についての授業であった。議論はあったのだが、よくわからないと思い、「『共生』って何かなあ?」と考えていた。


 共生とは、たぶん、理由への踏み込みであり、妥協であり、そこそこの我慢であり、試行錯誤であり、面倒なものだと思う(先生がおっしゃっていたこととも重なるのだが、とりあえずわたしが考えたことを書く)。


 よくわからない人がおり、理解できない行動をする。たとえば、留学生が弁当の残りを1か月近く研究室の冷蔵庫に入れっぱなしにするなどである(実話)。汚い、不潔だ、さっさと捨てろよ、でも文化が違うから仕方がないのかな、どうせわかりあえないから何も言わないでおこう、そういう態度がある。

 それはたぶん共生ではない。

 共生の場合は、理由を訊くのだ。どうしてずっと置いておくのか、と。そして、こちら側の意見もきちんと言う。食べないのなら捨てるか持ち帰るかしてくれないか、と。

 共生が寛容と異なるのは、人間と人間同士がぶつかり合うところにあると思う。

 寛容は、tolerance で、基本的な意味は「何でも受け入れる」ではなく、「我慢する」である。あいつ、嫌な奴だけど、まあいいや、存在してていいよ――寛容はこれに近い。つまり、コミュニケーションはない。無関心に近い。でも、積極的に排除はしない。存在は認める。けれど、関わらない。

 共生は、嫌な奴とも話をする。そこに<あいだ>が生まれる。「えっ、そんなこと考えてたの?」とか、「あの行動の理由は、それだったのか」とか、そういうことが<あいだ>でわかる。

 ただ、そうしたからといってわかりあえるかどうかはわからない。妥協が必要かもしれない。しかし、そのときも、一方がものすごい我慢するのではなく、お互いが五分五分ぐらいに満足して我慢するのが共生なのであろうと思う。人間と人間の<あいだ>にコミュニケーションがあり、誰かがものすごく得をするのでもなく、誰かがものすごく我慢するのでもない社会、それがたぶん俯瞰して見たときの共生社会である。

 対峙して理由を訊くことからしかはじまらない共生――

 だから共生は面倒くさい。

 嫌な奴、だから関わらない――そのほうが簡単だ。

 どうしてそういうことするんだろう?と思うことさえも、このご時世なかなかにたいへんである。余裕がないからだ。理由を訊いてる余裕なんかない。「嫌な奴」と不機嫌になって終わる。不機嫌になると思考が止まる。でも、そのほうが簡単だし、実際そうなることって多い。

 どうしてそういうことするんだろう?と思うところまでは行ったとしても、そこから実際に「ねえねえ、ちょっとどうしてそういうことするの?」と訊くところまではなかなか行かれないのが現実であるように思う。

 だって面倒くさいから。「そういうこと」をする背景には、たぶんいろいろあって、それに逐一付き合ってなんかいられない。付き合うと面倒だ。だから「嫌な奴」で終わる。そのほうが簡単。

 さらに共生が面倒なのは、それが達成されることがないからだ。というよりむしろ、達成されてはならないから。「よしっ、共生できた!」となってはいけない。常に目指すべきものであり続ける。

 それはおそらく、わたしの中では公共性とかデモクラシーとかと同じように、共生が常に「不完全であること」が求められるからだ。だからこそ、常に不完全であるからこそ、「俺たちっていま共生してるのかな?」という反省的態度を促す。「達成しました!」と言ってはいけないからこそ、反省的なチェック機能が働く。誰か排除していないかな、これでいいのかな――それは不安であり、そういうことを考えるのは面倒であるけれど、それをするのがたぶん公共性とかデモクラシーとか共生なのだと思う。ジャック・デリダの言葉を借りるならば、それは常に「来たるべき」ものでしかない。

 
 というのが、現時点でのわたしの共生論。


 なんて書いている場合ではないんだ、本当は……。いつの間にこんなことに……。

 でも、今日は発言できなかったし、先週ももやもやが残る中で授業が終わってしまったから、ちょっとでも吐き出しておきたいとも思うわけである。


@研究室 

by no828 | 2009-05-19 19:14 | 思索


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