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思索の森と空の群青

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2009年 07月 16日

ふらんだーすの犬――橋本治『蝶のゆくえ』

 外から「ソーラン節」が聞こえる。留学生歓迎野外パーティー、のような催しがキャンパス内(2学と3学のあいだ)で行なわれているようだ。
 
 MC(Master of Ceremony)はすべて英語。日本への留学生なのだから日本語ですればよいのに、とすこし思ったり。

 共生とは!

 「ソーラン節」を聞くと「金八先生」を思い出す。わたしが中学生か高校生の頃の「金八先生」で踊られていたのが「ソーラン節」。「弟」が学級の中心、主人公的な位置付けで、その「兄」が引きこもりという、あのときの。

 どっこいしょーっ、どっこいしょ!

 いや、わたしは静かに論文を書きたいのだが。

 外界との落差をときどき感じるなあ。


34(167) 橋本治『蝶のゆくえ』集英社(集英社文庫)、2008年。
 (読了日:2009年7月16日)

 短編小説集。第18回柴田錬三郎賞受賞作、らしい。わたしは橋本治が読みたいから読んでみた。

 「現実には『美しい』とも『やさしい』とも思えない母親が、結婚式の写真の中では、美しくやさしく、人を迎え入れるような愛情に満ちた顔で、慎ましく微笑んでいる。その人が自分の母親だと思うと、孝太郎はほっとした。『やさしくてきれいなお母さん』がそこにいると思えるので、孝太郎はその写真を見るのが好きだった」(「ふらんだーすの犬」、p. 12)。

 「『これでだめになるかもしれない』と思いながらも、美加は、子供がいることを相手に告げた。
 言われた相手は、『いいじゃん、別に』と、信じられないようなことを言った。美加は、信じられない幸福で一杯になって、言った相手に想像力が欠如していることを考えてもみなかった。
 美加より二歳年上のその男は、『子供がいる』ということがどういうことなのかを考えもしない男だった」(同、p. 30)。

 「ふらんだーすの犬」は、いわゆる児童虐待の話。こういうことが現実にもあるのだ、と思うと、何か切なくなる。どうしてそういうことになるんだ、と思う。悲しくなる。

 すでに就職した大学院の同輩が「親教育」をテーマに研究している。親に対する教育をどうするか、ということである。研究の話を聞いて、親教育を主に行なうのが行政であるとしたら「親教育」によって国家権力が家庭にも入り込むことになるのではないか、とか、親に過剰な期待を寄せることが親を追い詰めるのではないか、とか、コメントしたこともあったように思う。

 しかし、「ふらんだーすの犬」を読むと、そんなことばかりも言っていられないと思ってしまう。

 子は産まれ落ちるところを選べない。それを運命として甘受せよ、とはしかし言えない状況があるのだ。

 頭を殴られた感覚。


 「男と女の間に友情があるのなら、その男との間には友情があった。男と女の間にセックスがあるのなら、その男との間にはセックスがあった。セックスがあって、友情があって、『そこに愛情がないのはへんだ』と思うのなら、そこには愛情もあった。友情を感じるだけの愛情と、セックスを共有しうるだけの愛情と」(「ごはん」、p. 76)。


 「それがあってしかるべきような部屋は、かつて確かにあった。そのようなアクアリウムの水槽を部屋に持つ友人も、かつてはいた。今はない。つかの間過去が蘇って、しかし加穂子が見ていたのは、過去ではなかった。
 『こんなものがあったらいい』と思われる現在のすき間を、加穂子は見ていた。それは普通、『憧れ』と言う」(「金魚」、p. 203。傍点省略)。


 「理解とはすなわち、幻滅のことである」(同、p. 219)。

 箴言である。


 「〔中に収められた〕『ほおずき』は、〔……〕『アオイという女子大生の視点から見た夏子の姿』が描かれると同時に、『夏子を見るアオイの姿』が描かれるという合わせ鏡のような構造が、うまく行っているのかどうか、橋本自身に判断がつかないままにお蔵入りになっていた。しかし『蝶のゆくえ』の構造自体が、『Aによって見られるBと、Bを見ることによって現れるAの姿』という合わせ鏡構造になっているので、橋本自身によって点検し直され、作品として復活した」(「自作解説」、p. 312)。

 「自作解説」というのがまずおもしろい。「解説書いてくれる人がいなかったのかな」と思いながら、前に内田樹が、橋本治の書評をきちんと書く人がいない、というようなことを言っていたのを思い出した。書く人がいない、ではなく、書ける人がいない、であったかもしれない。

 さて、「自作解説」にある「『Aによって見られるBと、Bを見ることによって現れるAの姿』という合わせ鏡構造」という文章を読み、「これが知性だ!」と思った。これは要は、Aのことを書いている、ということである。

 AがBを見る → Aの視点を通してBの姿が浮かび上がる → そうして浮かび上がったBの姿にはAのバイアス(いわばA性)が含まれる → そのバイアス(A性)を取り出すことでAの姿も浮かび上がる。

 もっと簡単に書くと、

 A → B → A´

である(ごたごた言う前にこれをまず書け)。


 自らを点検する姿勢がここには現れているようにわたしには思われ、「それが知性だ!」と思うのである。


 あるいは社会学の用語を用いれば、「それが再帰的近代だ!」ということになるのかもしれない。そこでは自分をもチェックの対象に入れることが求められる。

 あれ、するとわたしはあくまで再帰的近代の中で「知性」を捉えているということになるのであろうか。

 そうかもしれない。

 社会学はおそろしい。


@研究室 

by no828 | 2009-07-16 20:33 | 人+本=体


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