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思索の森と空の群青

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2009年 09月 02日

言葉は常に過剰であり、常に過少である

 昨夜の「爆問学問」は坂本龍一。「音楽」とは。

 「俺にしかわからない芸術」は簡単にできる、むしろ「みんなにわかって感動もしてもらう芸術」は難しい、という話が印象に残った。

 わたしはあまり音楽を聴かない。音楽を聴いて感動したということがほとんどないからだ。もちろん音楽を聴いて「この歌いいなあ」と思うことはある。けれど、自分がどのような歌を聴いて「この歌いいなあ」と思うのかまではわからないし、積極的にわかろうともしてこなかった。

 さらに言えば、「この歌いいなあ」は、「この声いいなあ」であり「このメロディいいなあ」であって、「この歌詞いいなあ」はほとんどない。歌詞、それはつまり言葉であるが、言葉であれば小説なり学術書なりを読んでいるときのほうが格段に感動することが多い。「なんでこんな文章書けるんだ」とか、胸に響いてくることはたびたびある。が、歌詞ではそういうことはない。

 なぜであろうと思う。それはたぶん詩と同じように、歌詞は行間が幅広いからだと思う。ひとつの文とひとつの文のあいだに距離がある。その距離を飛び越えて詩/詞をわかるには、読み手なり聞き手の経験、あるいはそれによって培われた想像力が不可欠であろうと思う。わたしにはそれが欠けているのかもしれないと思う。

 きちんと書いてくれ、と思う。文章にしてくれ、と思う。そうしないとわたしの胸には飛び込んでこない。

 もちろん音楽はすでに言葉だと思う。言葉の原理的な使命は「他者への伝達」にあるはずだ。もちろん他者は自分の中にもいる。その他者へも言葉なくしては届けられない。歌詞がなくても音楽は届く。だから音楽は言葉だ。歌詞がなくても、メロディだけで伝わってくることがある。歌詞がそれに乗せられていなくても、音楽は言葉だ。それゆえに歌詞付きの歌はメロディという言葉の上にさらに歌詞という言葉が重ねられていると言うことができ、それでちょっとわかりにくいということもあるかもしれない。

 言葉の過剰?

 いつから人は、また、どうして、メロディに歌詞を乗せるようになったのであろう?ここでわたしは史的に先にメロディがあり、それに後で歌詞が加わったという仮説に立っている。これらは原理的に考えれば別ものである。だからそれらが別であった頃もあったのではないかと思うわけである。

 わたしは基本的に静けさが好きだ。文だけでよい、メロディだけでよい、と思う、ことがある。

 だが、言葉とは常に過剰であるが、常に過少でもある。誰かがそんなことを言っていた。言葉にする前と、それを言葉にした後とでは、「そういうことじゃないんだ」という、「言葉にしきれていないんだ」という、ある種のもどかしさが常にまとわりつく。だからこそ――メロディと歌詞というふうに――人は言葉を重ねるのであろうが、それによって失われていることもあるように思う。言葉とは過剰であり過少であるということには、そういう意味もあるように思うし、ないのであれば付け加えたいと思う。


@研究室

by no828 | 2009-09-02 20:38 | 思索


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