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思索の森と空の群青

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2009年 09月 22日

他所の国にはプリミティブなままでいてほしいという己の身勝手さ——中谷美紀『インド旅行記3』

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42 (175) 中谷美紀『インド旅行記3 東・西インド編』幻冬舎(幻冬舎文庫)、2006年。


 久しぶりに本。部屋では読み終わった本が20冊ほどレヴューを待っている。

 かなり前に同旅行記の1と2を読んでいた。インドに興味があったので読んでみたが、実はそこまでの感動はなく、ゆえに3が出ていることを知りながらも読んでいなかった。けれど、昨日古本屋に寄ったら3が105円で売られていたので、どうせなら最後まで読むかと買ってみたのであった。

「生まれて初めてインドへ来たときの印象は、街灯の少ない暗い道路沿いに屋台がたくさん並んでいて、車とバイクと人と牛が右往左往していたのに、〔今回は〕空港周辺の道路には街灯がきちんと据えられて見通しはよくなり、名物の野良牛の姿なんて全く見当たらない。
 至るところに転がる牛の糞には辟易していたはずなのに、洗練されすぎたインドに物足りなさを感じてしまうのは、何故?先進国で豊かな暮らしを享受しているくせに、他所の国にはプリミティブなままでいてほしいという己の身勝手さには、つくづく呆れる」(pp. 10-11)。


 「文学の中の国際開発学」。「文学を教育学する」と同じく、将来授業やゼミで使えるのではないか。

「〔コルコタは〕平均所得が安い代わりに物価も安く、『喜びの街』とも言われるが、国境を接しているバングラデシュからの不法滞在者が後をたたず、スラムは拡大し続けているらしい。なるほど路上生活者はとてつもなく多く、インド各地で見受けられる、信号待ちの車に赤ん坊を抱いたスタイルでバクシーシ(施し)を乞うて、手を差し出す人々はおおむねバングラデシュからの移民だったのだ。
 ノーベル文学賞を受賞した詩人タゴール(私は読んだことがない)や、同じくノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン(ってどんなひと?)など、数々の文化人を輩出したコルカタでは映画も作られており、娯楽映画を大量に生産しているムンバイと比較して、その数こそ劣るものの、インド唯一のオスカー受賞者サタジット・レイ監督(またしても知らない)を輩出した街であり、『文化の街』とも言われている」(pp. 25-26)。


 バングラデシュ!アマルティア・セン!で反応したところ。チッタゴンのビルマ(ミャンマー)との国境沿いにしても、バングラデシュの国境周辺で何が起きているのかは知っておきたい。ちなみに、センは貧困論、平等論、分配論などを能力論でもって論じなおした人(と思い切ってまとめてみる)。キーワードは「ケイパビリティ capability」という一種の能力概念(なお、ケイパビリティは「潜在能力」ともっぱら訳されるが、何かちょっと違うとわたしは思う)。

 あれ、比較文学者のガヤトリ・スピヴァクもコルコタ?少なくともウエストベンガル州の出身であったはずだが……。

「1947年の独立以来、コルコタやカリンポンと同じウエストベンガル州に属しているダージリンは、ネパール人などによって独自の文化が築かれており、インドの他の地域と趣を異にしていることから、20年来独立を求め続けてきた。1986年にはダージリンの地方政党が強行手段に出て激しい衝突もあったほどで、この度の〔2005年の〕決議ではまず、今までウエストベンガル経由で配分された年間予算が中央政府から直接支払われることになり、早ければ6年以内に独立州としてグルカランド州を名乗ることが許されるかも知れないとのことで、彼らにとっては物凄い進展なのだとか」(p. 67)。

 知らなかった。独立したというニュースは寡聞にして知らない。

「帰る道すがら、先ほどの女の子がすでにビスケットの袋を持たず、また別のひとに恵みを乞うのを見て、彼女も立派に仕事をしているのだと気づかされた。空腹をしのぐために助けを乞うのではなく、ボロを纏い、哀しそうな表情と、笑顔を巧みに使い分けることが幼い彼女のビジネスなのだ。彼女は金品を受け取り、与える側は彼女の笑顔だけでなく貧しい人間に哀れみの施しをしたという満足感を得る。それでイーブンだ。それが彼女の生き方ならば、それでいいじゃないか」(pp. 71-72)。

 これも「文学の中の国際開発学」だが、わたしは施しをしたことがない。したところで「施しをしたという満足感」なんて得られないと思う。しなくてもそう。施しは、してもしなくても、満足感を得られるものではないとわたしは思う。バクシーシは大それたことではない、慣習だ、深く考えるなと言われればそうかもしれないと思う。また、ビジネスだと言われればそうかもしれないと思いながらも、「それでいいじゃないか」とはわたしには思えない。誰もが物乞いをせずに生きてゆける社会を作る必要がある——

 とは思うものの、「物乞いをせずに生きてゆける社会を作る必要がある」と言った途端に、今物乞いをしている人たちを侮蔑していることにはならないか。今そうである人たちの尊厳を大切にしながらも、そうではない社会のありようを構想する——難しい。何か、わたしが、このわたしが何を言っても空を切ることにしかならない気がする。言葉が届く気がしない。

 それから、物を乞うことと日本における生活保護の違いはどこにあるのかと思う。基本的には、原理的には一緒なのか。対面かどうか、直接かどうかの違い?その違いは大きいとは思う。対面で直接物を乞わなくてもよいように、非対面で間接的な——制度的な生活保護がある、ということか。それも人間の尊厳のため?


@研究室

by no828 | 2009-09-22 21:57 | 人+本=体


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