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思索の森と空の群青

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2009年 09月 25日

一つには「自分」をつかむため、もう一つは「他者」に考えを伝えるため―—『「考える」ための小論文』

 基本に戻るために。

 西研・森下育彦『「考える」ための小論文』ちくま新書、筑摩書房、1997年。

 西研は哲学者。その本は前にも何冊か読んだことがある。読んでいて「この人は自分の頭で考えているんだなあ」って思ったことを覚えている。

 以下、引用いくつか。

論文とは一人一人が考えていく作業そのものであり、また考えていくプロセスを他者に向けて提示することであって、どこかに模範があるのではない。そして、書くことの原動力となるのは、自分が発見したり納得したりすることの悦びと自由の感覚なのである」(7頁。原文の強調は省略。引用文中の強調はすべて引用者による)。

 最近、これを自覚するようになってきた。

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「読者の多くが、論文試験の対策のためにこの本を手にとっていると思う。けれども、論文は試験のために生まれたものではなく、もともと自発的に書かれるものだ。その目的は大きくいって二つ。一つには『自分』をつかむため、もう一つは『他者』に考えを伝えるために、人は論文を書こうとするのである。
 〔……〕
 私たちはなぜ、そんなこと〔=論文を書く目的のひとつ、自問自答〕をするのだろう。それはおそらく、納得できない考えには従いたくない、自分は自分らしく生きたい、と思っているからだ。他人から与えられたままではなくて(私たちのなかに浮かぶ考えの多くが他人の考えのコピーなのだ)、自分でちゃんと考えて納得したい。そのために、私たちは論文を書いて自問自答してみるのである。
 〔……〕
 つまり〔論文を書く目的のもうひとつ、他者とのコミュニケーションにおいて〕論文を書く人がめざすのは、ただの賛同でも賞賛でもなくて、読み手に自分の考え(結論及びそう考える理由)をまっすぐに受けとめてもらうことなのであり、そのことを通じて考えを進めるための助力をもらえるようにすることなのだ。〔……〕
 だから論文は自問自答のプロセスであるだけでなく、他者を巻き込んで互いに応答しあうプロセスでもあるのだ。そうやってともに納得できる考えをつくりあげていこうとすること、これが論文を書くことのいちばん底にある夢であり、ユートピアなのだといってもいいだろう。」(10-14頁)。


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「立派な結論を出すことが最終目的ではなく(ついそう考えがちになるけれど)、その結論にいたるまでの思考のプロセスが大切なのである。そして自分なりに発想し考え進めていくプロセスを読み手に『見せる』ことができれば、成功なのである」(19頁)。

 修士論文のとき、わたしは論文を書くってどういうことなんだと悩んだ。研究って何なんだと思った。よくわからないと思い続けた。佳境に差し掛かった頃、自分の考えの道筋だけを書いたレジュメをA4で6枚ぐらいにまとめて先生方の前で発表した。「よくわかった、あなたの言いたいことはよくわかった」と、いつも辛口の先生がおっしゃった。わたしはなぜかよくわからなった。「へ?」と思った。「どうしてわかってくれたんだろう?」と思った。今から振り返れば、それはわたしなりの思考のプロセスをきちんと書いたからだと思うのだ。

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 論文には、「感情」ではなく「考え」を書く。だが、両者はまったく別物でもない。

「つまり考えとは、もともとは個人の心の動きから生まれてくるものだが、あえて個人の心の動きからいったん切り離したうえで、『誰でも認めざるを得ないこと』というつもりで主張される事柄をいうのだ。感情は個人の心の動きであるのに対し、考えは普遍性を要求するのである」(23-24頁)。

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 論文で求められる「オリジナリティ(独自性)」について。

「〔……〕常識の相対化は、論文においても必要なことだ。
 だが、ただ奇抜なことを言いさえすれば独自性が出てくるわけではない。ただ目立とうとするだけの演技が『あざとい』感じがするように、その人のなかでしっかりと考えられた過程がないならば、目立ってやろうという魂胆だけが読み手に伝わってくることになる。
 〔……〕
 では、独自性とはいったいどういうことなのだろうか。たしかに、ある文章を眼にしたとき、ハッとさせられるような個性的な見方やまなざしを感じさせられることがある。つまり、『一人の生きた人間』の存在を感じさせる文章というものがあるのだ。しかしこれは、求めれば得られるというものではない。独自性というものは『めざすべきもの』ではなく、表現の努力をするなかでおのずと出てくるものなのである」(45-46頁)。


 やっぱり自分の中を一回―—と言わず何度でも―—くぐり抜けたことばでないと、他者の中には届かないのだ。これは論文を書く者にかぎらず、表現者全般にあてはまることであろうと思う。「ことば」ではない表現の媒体もたくさんある。他者に何事かを本気で伝えるためには、媒体それ自体、そして、その媒体に託す自分の思いを磨かなければならない。もちろんそうしたからといって伝わるかどうかはわからない。しかし、そうしなければ確実に伝わらないのである。


 こういうことを、卒論ゼミなんかを受け持つようになったらきちんとゼミ生に伝えようと思う。


@研究室

by no828 | 2009-09-25 21:07 | 思索の森の言の葉は


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