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思索の森と空の群青

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2009年 10月 19日

買わないから。本はじゃあこれからは全部図書館で借りて読むから——乾くるみ『イニシエーション・ラブ』

 食後につき。

 55 (188) 乾くるみ『イニシエーション・ラブ』文春文庫、文藝春秋、2007年。

 ミステリー。評判は知っていたので、古本屋でたまたま見つけたとき「ああ、これか」と思い。

 以下、本筋とは関係のないところから。

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「ただ堕胎という言葉——胎児を堕ろすというその言葉には、簡単には頷きかねる背徳の響きがあり、それだけが僕たちの決断を鈍らせていた。それは自然の摂理に反する行為であり、さらに言えば、胎児の命を奪う——つまりは殺人行為ですらあったのだから。
 僕が一言いえば決まる。それはわかっていた。しかし僕にはなかなかそれが言えなかった。代わりに僕は、カラーボックスの上に積まれていたハードカバーの本の山に目をつけると、『何だよこれは』と手で床に払い落とした。
 『俺がお前と会うためにどんだけ出費を切り詰めているのかわかってんのか。高速も使わずに下の道を走ってきて、そのぶん五時間も六時間もかけて運転してきてるのに、それなのにお前は、こんな高い本を平気で買えるような金銭感覚でいるのかよ』と、喋っているうちに声がどんどん荒っぽくなっていくのが自分でもわかった。
 それに対してマユは、『もう買わないから。本はじゃあこれからは全部図書館で借りて読むから。……今はそんなことで怒らないで』と、か細い声で言い、床に散らばった本を一冊ずつ拾い集めようとする。
 その姿を見ているうちに、僕は急に自分の愚劣さに気づいた。先ほどまでの怒りが、胸の中で急速に萎んでゆく。
 『ごめん』と僕は素直に謝った」
(215-216頁)。

「もう買わないから。本はじゃあこれからは全部図書館で借りて読むから」になぜだか切なさというか哀しさというかを感じたのだ。

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「『でもね、鈴木くん』最後まで聞くに値しないといった感じで、彼女は僕の話に割って入った。
 『——だいたい頭が良いっていうけど、それって単に学校の成績が良かったっていうだけのことでしょ?今の詰め込み式の教育についていけたってことは、それだけ——素直って言えば聞こえはいいけど、そうじゃなくて、それだけ親の言うこととか、先生の言うこととかに素直に従ってたってことで、それって逆に言えば、本人の自立心とかが育たなかったことにならない?本当の頭の良さって、どこの大学に行ってたとか、そういうこととはぜんぜん無関係だと私は思ってるし』」
(223頁)。

 このお話の舞台は1980年代後半のはず、とすると、登場人物(主に新卒社会人)が学校教育を受けたのは70年代から80年代中盤ぐらいまで。日本の高度経済成長期において求められていたのは、そういう「素直」な人間ということになるが、そういう人間ばかりが育ったとは言えないことは明らかであろうと思う。時代を「こうだ」と特徴付けることはできるが、しかしそれは時代の雰囲気を説明したにすぎず、そこに具体的に生きた人間のことまで説明したとは言えない。
 というか、詰め込み式とは一体何で、それはいつからいつまで続いたのであろう。

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「しかし石丸さんは、僕の考えを否定するような話をし始めた。
『考えを変えるってことがすべて悪いことだ、っていうのは言えないと思う、私は。だって、もし最初に考えていたことが間違っていた場合には、それを貫き通すのって、まわりの人にとっても迷惑になるだけじゃない。もし途中で間違ってたって気づいた場合には、考えを変えることのほうが結果的に正しいことだってある。現に私だって——』
 そこで、一瞬、逡巡のようなものが窺われたが、しかし彼女はその先を続けた。
『前にも言ったけど、私、天童さんっていう、あの人と付き合ってたのね、大学時代。私にとってはそれが初めての恋愛で、そのときには私も、この人のことを一生好きでいられるって思ってた。〔……〕だから別れた後も、きっと彼以上に好きになる相手なんて、この先一生現れないって思ってた。でもそれは幼かった私の無知なる思い込みでしかなかったっていうのが、今になってみればすごいわかって。〔……〕……鈴木くんの言うように、コロコロと自分の意見を変えるのは良くないって私も思う。だけど人間って成長するものだし、そのときに過去の自分を否定することだってあると思うし、それは許されることだとも思う。……自分の言葉に責任を持てるようになるのって、本当は何歳なんだろう?わからないけど、でも私や鈴木くんの年齢〔社会人1年目とか2年目とか〕で、それができるって思うのは、思い上がりだと私は思う。私たちはまだまだ成長する。なのに自分の言葉に責任を持って、考えを変えないようにするのって、それを無理やり止めようとすることと同じだと思う』」
(228-229頁)。

 難しいなあと思った。
 自分の考えを変えない、は首尾一貫しているということで肯定的に評価されることがある。しかし、自分の考えは間違っているかもしれないと気付きつつも一度その考えに乗ってしまった以上それを変えることもできないからそのまま考える、もありうる。それを橋本治は(たしか)「思想の罠」と読んでいた。ここでも書いているように、思想は価値的な判断の「体系」であるから、一貫性を求める。その一貫性を守ることに主眼が置かれると、このまま考えていくと結論はまずいことになる、と思ってもそれを変えられなくなる。
 しかし、ひょいひょいと考えを変えていくのもどうかと思い、それって信頼されないんじゃないかと思う。とりわけ人文社会科学系の研究(教育学はとくに、だが)では、立場なるものが重要だと見なされ、「あの人だったらこう考えるだろう」というのが定着してくる。そういう中で、あっちに行っていた人が「やっぱりダメだ」とこっちに来たりすると、「転向」と言われたりする。もちろんそう言われるには、ある程度ベテランにならないといけない。だからわたしにはその心配がないとも思う。
 上の2パラグラフとどうつながるのかはわからないが、人間は「以後変更しなくてよい不動の拠り所」を、そんなものはないような気がしながらも、どこかで求めているような気もしていて、それを見つけるためにいろいろ立場を試してみるのもありだとは思い、それが「若手」の頃なのかなあと思う。しかし、不動の拠り所はきっとなく、あるとすれば「不動の拠り所はきっとない」というのが不動の拠り所だと思う。が、それだと自分も不安だし、また、周囲からの信頼が揺らぐような気もしており、考えを変えるとか変えないとか、一貫してるとかしていないとか、そういうのって難しいなあと思うわけである。

 逆接な言い回しになるけれど、不安を生き抜く思想入門、なんて本があれば読んでみたい。

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@研究室

by no828 | 2009-10-19 15:05 | 人+本=体


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