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思索の森と空の群青

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2009年 10月 30日

僕は落語家として生きてゆける——立川談春『赤めだか』

 秋の晴れた朝の光が気持ちのよいこと。今日は暖かくもある。

 67 (200) 立川談春『赤めだか』扶桑社、2008年。

 ブログを始めてから2年ちょっとのあいだに読んだ非学術書がようやく200冊。はじめは書誌情報と一言コメントだけであったのが、いつの間にか引用までするようになった。

 この「人+本=体」という読書記録カテゴリを愉しみにしてくれている人はあまりいないのではないかという思いはある。けれど、もしかしたら読んだ方から何らかの応答があるかもしれないという期待があり、そのときの自分に響いて書き残した言葉を後から振り返ってみるのもおもしろいのではないかという予感があり、そしてこれから願わくば言葉を伝える仕事をするさいに何らかの手助けになるのではないかという目論見もあり、なかなか止められない。

 というわけで6月4日に読み終わっていた落語家・立川談春の自伝、あるいは師匠談志との教えと学びの相関史。落語家だからか、文章にリズムがあってテンポがすごくいい。

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 談春が中学卒業間近に寄席に行ったときの談志の話。

「『〔……〕落語はね、この逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかっていても、そうはいかない。八月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。客席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。でもな努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。「落語とは人間の業の肯定である」。よく覚えておきな。教師なんてほとんど馬鹿なんだから、こんなことは教えねェだろう。嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな』」(12-13頁。強調は引用者、以下同様)。

 このあと高校に入った談春は談志の追っかけをはじめる。

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「玄関で談秋の靴を揃えてから、先に外へ出ようとした僕の背中に談志〔イエモト、とルビ。以下同様〕の怒鳴り声が飛んだ。
『談春!何してやがんだ。馬鹿野郎! どこの世界に弟弟子の靴揃える兄弟子がいるんだ。おい小僧、よく覚えておけよ! 年が下でもお前が兄さんと呼ばれるのはな、お前が後輩に教えられることがあるからだ。形式だけの兄弟子、弟弟子なら、そんなものヤメチマエ! 談秋に聞かれたことは、皆答えられるようにしとけ。そのための努力をしろ。靴なんか揃えてる暇はねェんだ。前座の間はな、どうやったら俺が喜ぶか、それだけ考えてろ。患うほど、気を遣え。お前は俺に惚れて落語家になったんだろう。本気で惚れてる相手なら死ぬ気で尽くせ。サシで付き合って相手を喜ばせられないような奴が何百人という客を満足させられるわけがねェだろう。談秋、テメェもテメェだ。兄弟子に靴揃えられて黙って履こうとする馬鹿が何処にいる!』
 二人で、申し訳ありませんでした、と謝ったあと外へ出た」
(37-38頁)。

 年が上、職位が上という理由だけで威張り、俺はわたしは先輩だ先生だと言い張っている奴はどうでもよろしいと思う。

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「十分ほどしゃべって、談志〔イエモト〕は云った。
『ま、こんなもんだ。今演〔や〕ったものは覚えんでもいい。テープも録ってないしな。今度は、きちんと一席教えてやる。プロとはこういうもんだということがわかればそれでいい。よく芸は盗むもんだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい。盗めるようになりゃ一人前だ。時間がかかるんだ』」
(64頁。強調は引用者)。

 これはよくわかる。

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「『よーし。それでいい。よく覚えた。坊や、お前は何も考えなくていい、そのまま、片っ端から落語を覚えていっちまえ! 良い口調だ。今度は道灌を教えてやる』
〔……〕
 単純と云えば単純だが、天下の立川談志に誉められた十七才の少年の心境を想像してほしい。得意の絶頂である。
 必死に稽古して良かった。自慢じゃないが、浮世根問なら、談志〔イエモト〕がブレスを入れる箇所まで再現できる。この調子だ。事実、談志〔イエモト〕は云った。お前はこのままでいいと……。僕は落語家として生きてゆける。
 後年、酔った談志〔イエモト〕は云った。
『あのなあ、師匠なんてものは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやれることはないのかもしれん、と思うことがあるんだ』
 この言葉にどれほど深い意味があるのか今の僕にはわからないのだが、そうかもしれないと思い当たる節はある」
(68-69頁)。

 教育とは何かということを考える。教育は意図を持って相手に何かを伝達しようとしたときに生起するものである。相手にその何かが意図どおりに伝わるかどうかまではわからない。教育が行なわれたからといって学びが駆動するかどうかはわからないのだ。何が学びのスイッチを入れるか、それは学ぶ側の「気持ち」。気持ちに訴えかける何かがなければ学びは起動しない。「誉める」はたしかに学びを起動させることがある。が、いつもではない。この人に誉められたいと思う人から誉められるから嬉しいのであり、もっとがんばろうと思うのだ。「この人に誉められたい」は、しかし誉め続けていれば学ぶ側に勝手に湧き出てくるものでもない。誉める前の何か、一撃がないといけない。

(ところで「道灌」って、足利の太田道灌? 今、偶然にも、北条早雲を描いた司馬遼太郎の『箱根の坂』全3巻を読んでいるのだが、そこに道灌がちらっと出てきた、ような気がする。早雲は道灌を人物として認めていたなあ。と書きつつ、まったく違っていたらどうしよう。)

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「翌日、談春〔ボク〕は談志〔イエモト〕と書斎で二人きりになった。突然談志〔イエモト〕が、
『お前に嫉妬とは何かを教えてやる』
と云った。
『己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱みを口であげつらって、自分のレベルを下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う』
(116頁)。

 肝に銘じよう。

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 談志の厳しさの中にある優しさがにじみ出てくる本であった。談春は談志を師匠と本気で思い、談志は談春を弟子と本気で思う。その関係性にぐっとくる。


@研究室

by no828 | 2009-10-30 13:50 | 人+本=体


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