書くことがない
と思ってその理由を考えたら、単調な生活を送っているからだと気付いた。人文・社会科学系の理論研究志向の大学院生のすることと言えば、基本的に、
“論文を読み、考え、書く”
のみである。友だちの結婚式のたびに、“おまえは一体何をしているのだ”と訊かれ、そのたびに、“基本的には論文を読んで、論文を書く、だ”と答えている。外部者からすれば、“大学院生”なんて不可解であろうとは思う(自覚はしているつもり)。
そのほかにも、たしかに授業や研究会などもあり、実際に昨日もあったが、まったくもっておもしろくなく、そういうときは不機嫌になる。時間を返せ。わたしには自分の中へと沈潜する時間が必要なのだ。
だが今日はおもしろそうなタイトルの論文(1972年)を見つけ、それが図書館に入っていることがわかったからコピーをしに行った。現物をぱらぱら読んでみたら、実はそれほどおもしろくないことに気付き、何もせずに図書館からとぼとぼと帰ってきた。
しかも今日は雨。
とはいえ、それとは別におもしろい論文を2本(ウェブ上のジャーナルと市販の論集から1本ずつ)見つけることもでき、一方は経済理論のもので読み終わり、他方はデモクラシー理論についてのもので途中まで読んだ。それからデモクラシーと平等に関する思想史の本を1冊読み終えた。これもおもしろかった。
おもしろい論考に当たると、わたしの内面は狂喜乱舞する。
がしかし、教育についての論文を今日はひとつも読んでいないことにここで気付かされ、わたしのディシプリンは一体何だと思うわけである。
別に何でもいいのだけれど。もちろん何かにすがりたい気持ちもあるけれど。
@研究室