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思索の森と空の群青

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2010年 07月 01日

朝はご飯があって、味噌汁、干物、漬物がある。夕にはそれに魚——井上ひさし他『あてになる国のつくり方』

朝はご飯があって、味噌汁、干物、漬物がある。夕にはそれに魚——井上ひさし他『あてになる国のつくり方』_c0131823_13443870.jpg49(282)井上ひさし・生活者大学校講師陣,2008,『あてになる国のつくり方——フツー人の誇りと責任』光文社(光文社文庫).

版元

* 単行本は2002年に同社より刊行。


 2008年に買って最初だけ読んで、以来ずっと放置していた本を学会に持って行って移動時間に読み終えた。サブタイトルが示す「フツー人の誇りと責任」が本書を貫く考え方。井上さんらは現在はグローバリゼーション時代にあるとの認識の下、普通の生活者に向けて“思考を放棄するな”と言っているようにわたしには思われた。


 太平洋戦争では、当時の東条英機首相や陸軍のお偉方にフツー人は踊らされていた。フツー人はみんなで踊らされて、戦争をしてひどい目にあったというキレイでわかりやすい筋書きがあります。しかし、何も知らずに踊らされていたと言っている人に限って、自分がほかのだれかを踊らせていたことに気がつかない。
■(15)

 「脅かされず 踊らされず 踊る」(秋野豊)


 ボローニャ大学は、学生たちが自分たちで組合をつくって、いちばん自分たちにふさわしい先生を迎える形でできあがった大学です。パリ大学のでき方は、ボローニャ大学とは逆です。先生たちが組合を作って〔ママ〕、大学をつくった。なぜかというと、学費の払いの悪い生徒もいれば、授業料が高いと文句をつける生徒もいる、授業態度も悪い。教師がしっかりしなければいけないというので組合を作った〔ママ〕のです。
 アメリカには、図書館から大学ができた例もあります。アメリカでは最も古い一六三六年創立のハーバード大学がそうです。ハーバードという蔵書家の牧師が亡くなって、
「蔵書三万冊とその財産を町に寄付する」
 という遺言を遺した。その本をどう整理するのか、整理してどう読むのかということからハーバード大学が始まりました。
 日本の国立大学は、政府の官僚、つまり役人を作るための大学として始まっています。それに対して、私立の早稲田大学、慶応大学などができていくわけです。

■(36-7)

 ここでの「パリ大学」がどのパリ大学を指すのか読み取れない。というのも、パリ大学は「パリ第〜大学」という具合にたくさんあるというのがわたしの理解だから。その多くが教員組合からできたというのはその通りかもしれないが、パリ第8大学は何かちょっと違うらしいというのを前に聞いたことがある。ジル・ドゥルーズもそこで教えていたことがあったとか。


 〔ボローニャの〕市会議員には給料はありません。ボランティアの名誉職です。市長もそうです。実費をもらうだけのボランティアです。これもすごいことです。あらゆる議会や町の公式行事は市民が参加できるように、夜の六時から始まります。ボランティアの市会議員は、昼間は働いて仕事が終わってから市議会に出る仕組みになっています。
■(43-4)

「政治家」とは何か。ハンナ・アレントの公私二元論とか。


 また、わたしたちのいちばんの問題は生活様式がなくなったことです。この日本列島を中心に住んでいるわたしたちには、長い年月をかけてつくりあげてきたその生活様式がありました。たとえば、かつての朝夕の食事ですね。朝はご飯があって、味噌汁、干物、漬物がある。夕にはそれに魚がついている。こういう献立で、日本人は営々と生きてきたのです。それが、今は一切なくなってきている。ここ三十年くらいの間に変わってしまったのです。
■(51)

 うーん、ここで出てくる「日本人」って一体どこの誰のことなのか。ここで典型的に表現されている“日本人の生活様式”って本当に「日本人」全員が採用してきたものなのか。井上さんの議論では大切なことも言われているけれど、どうもナショナルな、というか、エスニックなフレームワークで枠付けられているように見受けられる。あとは、たとえば以下のようなところ。


ほし、つき、みず、かわ、うみといった平安の昔からかわらないもの、つまり、コトバの底流を基準にものを考えるようにしたい。
■(199-200)


〔アメリカには〕「俺が世界を仕切るんだ」
 という意識があるのですね。これに対抗する市民レベルの大きなグローバリズムを起こしていく必要があります。
 しかし、文化とか食べ物では、もう悲惨な結果が出ています。グローバリゼーションの結果は、日本のファーストフード店で如実です。コカ・コーラを手に、マクドナルドのハンバーガーを食べる。家に帰ってアメリカのCNNニュースを見る。これがグローバリズムの結果です。
 では、日本の食事文化はどこへ消えたのか。ここはアメリカではないのです。自分たちの食べ物は自分たちで守る。それが文化を守るということです。文化とは、わたしたちの一日一日の生活の習慣を束ねたものです。当然、食べ物は重要な意味を持ってきます。これをグローバリゼーションする必要は全然ない。逆に、してはいけないのです。

■(296)

 ただ、それじゃあ井上さんは復古主義的に反グローバル化を唱えているのかと言えばそうではなく、今あるグローバリゼーションとは別のグローバリゼーションを作るのだ、作ることができるのだ、と言っている。そのときのキーワードのひとつが「新しい公共」であり、“あれれ、それって民主党政権も使っている言葉じゃないか”とわたしは思ったわけであります。

□アメリカによるイラク攻撃と日本の対応
日本は自分の立場を国際法の上にしっかりと置いて、歯を食いしばってでも中立の道を行くべきです。
 たとえば、第二次世界大戦中、カリフォルニアの日系人十万が閉じこめられていた十の収容所を、サンフランシスコのスペイン総領事館の館員が定期的に巡回していました。日系人たちが不当な扱いを受けていないかどうか、待遇は国際法に則っているかどうか、それを査察して歩いていたのです。日系人たちが納豆をたべたい、納豆を作りたいと言うと、スペイン総領事館は他の中立国を経由しながら日本から納豆菌を取り寄せて、収容所に届けました。
 またスエーデン〔ママ〕は船舶を提供して、世界中の人質交換を引き受け、交戦国から感謝されていました。
 つまり、ブッシュ大統領の「われわれの側につくか、それとも敵対するか。はっきりしろ」というのは西部劇にしか通用しない雑な言い方であって、現実の世界にはかならず第三の道があるのです。まず、「武力攻撃はあとに恨みをのこすだろうし、あなたの器量も下がるだけだから、おやめなさい。別の方法を考えようじゃありませんか」と必死に進言し、それでも聞いてくれなければ、「残念ながらご一緒できません。その代わり、戦さによって起こる悲劇を、わたしたちができるだけ背負うことにいたしましょう」と云い、覚悟を定めるしかないでしょう。

■(124-5)


@研究室

by no828 | 2010-07-01 13:47 | 人+本=体


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