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思索の森と空の群青

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2010年 10月 01日

何故山の方へ歩いて行かない——夏目漱石『行人』

 67(300)夏目漱石『行人』新潮社(新潮文庫)、1952年。

 画像なし。

 タイトルの「行人」は「こうじん」。

 主人公は「一郎」らしいのだが、わたしにはどうも「二郎」が主人公のような気がしてならない。たしかに話が進むにつれて一郎に当たる光量が増していくのだが、それも二郎らを通してのことであって、一郎自身をそのままに記述するというのはあまりない。

 ちなみに、一郎は学者。学問ばかりしている奴はちょっとどこか変だ、というのがこの本に通奏的にあるような気がする。わたしは“変であること”は変なことでは全然ないと考えているが、しかしその“変さ”の方向性には一定の制約があってもよいとも考えている。一郎的な方向性には、なかなか賛成しかねる。


「結婚すると子供が欲しくなるものですかね」と聞いてみた。
「なに子供が可愛いかどうかまだ僕にも分りませんが、何しろ妻〔さい〕たるものが子供を生まなくっちゃ、まるで一人前の資格がない様な気がして……」
 岡田は単にわが女房を世間並にする為に子供を欲するのであった。〔……〕すると岡田が「それに二人ぎりじゃ淋しくってね」と又つけ加えた。
「二人ぎりだから仲が好いんでしょう」
「子供が出来ると夫婦の愛は減るもんでしょうか」

□(12)


「この席でこんな御話をするのは少し憚りがあるが」と兄〔一郎〕が云った。〔……〕
「男は情慾を満足させるまでは、女よりも烈しい愛を相手に捧げるが、一旦事が成就するとその愛が段々下り坂になるに反して、女の方は関係が付くとそれからその男を益〔ますます〕慕う様になる。これが進化論から見ても、世間の事実から見ても、実際じゃなかろうかと思うのです。それでその男もこの原則に支配されて後から女に気がなくなった結果結婚を断ったんじゃないでしょうか」

□(218)


 兄は俥で学校へ出た。学校から帰ると大抵は書斎へ這入って何かしていた。家族のものでも滅多に顔を合わす機会はなかった。用があると此方〔こっち〕から二階に上って、わざわざ扉〔ドア〕を開けるのが常になっていた。兄はいつでも大きな書物の上に眼を向けていた。それでなければ何か万年筆で細かい字を書いていた。一番我々の眼に付いたのは、彼の茫然として洋机〔テーブル〕の上に頬杖を突いている時であった。
 彼は一心に何か考えているらしかった。彼は学者でかつ思索家であるから、黙って考えるのは当然の事のようにも思われたが、扉を開けてその様子を見た者は、如何にも寒い気がすると云って、用を済すのを待ち兼ねて外へ出た。最も関係の深い母ですら、書斎へ行くのを余り難有い〔ありがたい〕とは思っていなかったらしい。
「二郎、学者ってものは皆あんな偏屈なものかね」
 この問を聞いた時、自分は学者でないのを不思議な幸福の様に感じた。

□(220)


「自分に誠実でないものは、決して他人に誠実であり得ない」
 私は兄さんのこの言葉を、自分の何処へ応用して好いか気が付きませんでした。
「君は僕のお守になって、わざわざ一所に旅行しているんじゃないか。僕は君の好意を感謝する。けれどもそういう動機から出る君の言動は、誠を装う偽りに過ぎないと思う。朋友としての僕は君から離れるだけだ」
 兄さんはこう断言しました。そうして私を其処へ取残したまま、一人でどんどん山道を馳け〔かけ〕下りて行きました。その時私も兄さんの口を迸しる Einsamkeit, du meine Heimat Einsamkeit! (孤独なるものよ、汝はわが住居〔すまい〕なり)という独逸語を聞きました。

□(344)

 自分に誠実な者は、必ず他人にも誠実であるのか。


「何故山の方へ歩いて行かない」
 私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、附け足しました。
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太を踏んで口惜しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。何故山の方へ歩いて行かない」
「もし向うが此方へ来るべき義務があったらどうだ」と兄さんが云います。
「向うに義務があろうとあるまいと、此方に必要があれば此方で行くだけの事だ」と私が答えます。
「義務のないところに必要のある筈がない」と兄さんが主張します。
「じゃ幸福のために行くさ。必要のために行きたくないなら」と私が又答えます。

 兄さんはこれで又黙りました。私のいう意味はよく兄さんに解っているのです。けれども是非、善悪、美醜の区別に於て、自分の今日までに養い上げた高い標準を、生活の中心としなければ生きていられない兄さんは、さらりとそれを擲って、幸福を求める気になれないのです。寧ろそれに振ら下がりながら、幸福を得ようと焦燥る〔あせる〕のです。そうしてその矛盾も兄さんには能く呑み込めているのです。
「自分を生活の心棒と思わないで、綺麗に投げ出したら、もっと楽になれるよ」と私が又兄さんに云いました。
「じゃ何を心棒にして生きて行くんだ」と兄さんが聞きました。
「神さ」と私が答えました。
「神とは何だ」と兄さんが又聞〔ママ〕ました。

□(351-2)

 ともするとこうなりかねない。注意。難しいけれど。


私「世の中の事が自分の思う様にばかりならない以上、そこに自分以外の意志が働いているという事実を認めなくてはなるまい」
 「認めている」
私「そうしてその意志は君のよりも遙に偉大じゃないか」
 「偉大かも知れない、僕が負けるんだから。けれども大概は僕のよりも不善で不実で不真だ。僕は彼等に負かされる訳がないのに負かされる。だから腹が立つのだ」
私「それは御互に弱い人間意志の競合を云うんだろう。僕のはそうじゃない、もっと大きなものを指すのだ」
 「そんな曖昧なものが何処にある」
私「なければ君を救う事が出来ないだけの話だ」

□(353)

 自分が絶対に正しいのだ、と思った瞬間にそれはもう学問ではなくなる。自分は間違っているかもしれませんがとりあえずこんなふうに考えてみたんですけれど、というのが学問をする者に求められる態度であろう。しかし、知識を貯え、それを使いこなす思考様式を身に付けていくと、そしてそれを他者から承認されると、自分に自信が付いていくこともまた事実である。このときに慢心せずに、あくまで自らの可謬から目を逸らさないことが大切。難しいのだけれど。
 あとは、すべてを自分で、自分だけで何とかしようと思わないことも大事かもしれない。自分で自分で、すべてを自分で、と考えていくと、料簡が狭くなる。その前に他者と話をすることが肝要だと思う。

 以上、自戒を込めて。そうしないと自壊しちゃう。


@研究室

by no828 | 2010-10-01 20:31 | 人+本=体


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