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思索の森と空の群青

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2010年 10月 19日

すべては所を得、すべての鳥は塒に還ったのです——三島由紀夫『宴のあと』

すべては所を得、すべての鳥は塒に還ったのです——三島由紀夫『宴のあと』_c0131823_18442850.jpg74(307)三島由紀夫『宴のあと』新潮社(新潮文庫)、1969年。

版元

※ 単行本は同社から1960年に刊行。


 三島の本を読んでいると、ときどきぞくぞくっとする文章に出会う。艶っぽいのかな。“何でこんな日本語書けるんだ!”って思うことがあるわけです。

 途中、内容にぐわぁーっと入っていって、自分で文章を作りながら読んでいるような感覚になった。結論が読めたからかもしれない。それで、あれって思って、そうそうこれは三島が書いたものをわたしが読んでいるのであったと、再確認しなければならなかった。変な感覚。

 で。

 『宴のあと』はプライヴァシー裁判で有名になった本らしいけれど、そのあたりのことはほとんど知らない。本の内容は、妻に先立たれた元外務大臣の中年の男が、これまた“男勝り”の中年の女と出会い、結婚し、男の方は党にかつがれて都知事選に立候補し、妻もまたそれを過剰なまでに応援し、しかし結果は敗戦で、それじゃあこれからどう生きていこうかと思ったときに、夫と妻のあいだの価値観のずれがより一層顕在化して別れることになり、それぞれの価値観で生きていくことになった、というものです(一息で読むと息が続かない)。裁判になったということは、そういうようなことが実際にあったということでしょうね。


 無口な人ほどその傾向があるが、野口も一旦口に出した言葉は大いに重んじる性格だった。それが自分だけの約束事なら格別、人に命じた言葉の実現も疑わなかった。こうあれかしと思って彼が言うことは、当然そうなっている筈だった。だから〔選挙の〕敗戦の夜、今後は恩給だけのつましい「じじばば」の生活をしよう、と一旦言い渡したからには、かづも全くそのつもりになっているものと野口は思っていた。
□(177)

 この野口の気持ちはよくわかるし、三島の“無口な人=言葉を大いに重んじる人”という特徴付けもよくわかる。だって(たぶん)わたしにもそういうところがあるから。必要なことだから話すのであり、不要なことだから話さない、話したことは必要なことなのだから、その言葉のとおりにする必要があり、また、そうなる必要もある。だから、わたしが勝手に話しているのなら別によいのだけれど、その場でわたしが話す必要があるという状況でわたしが実際に話しているときにそれを聞いていない人がいるとあれですよね。

 ま、野口ほど厳格ではないけれど。

 ちなみに、引用文中の「格別」の使われ方にとまどった。


 あなたはやはり暖かい血と人間らしい活力へ還って行かれるべきでしたろうし、野口氏も高潔な理想と美しい正義へ還って行かれるべきでしょう。残酷なようですが、第三者の目から見ると、すべては所を得、すべての鳥は塒に還ったのです。
□(229)

 「塒」は「ねぐら」です。時代小説にはよく出てきますね。私的統計上、長屋住まいの独身男がよく使います。「塒に帰る」とか何とか。
 
 で。

 最近はこういう、“しかるべき場所”とか“しかるべきとき”とか、そういうのに出会うというか、そういうのに引っかかる。わたし自身がそれを探しているからでしょうね。

 あと、「所を得〔る〕」で「所得」か、と思って、妙に納得した。「応分の」ということか。もちろん何をもって「応分」とするのかが難しいのだけれど……。

 追伸:昨日のアクセス数がなぜか急増。更新していないにもかかわらず。What happened? でも、ありがとうございました。


@研究室

by no828 | 2010-10-19 19:21 | 人+本=体


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