2010年 11月 14日
前のつづき。「日本語になっていない概念はダメだ」は本当か(いや、違うのではないか)、という話のつづき。 江戸から明治に変わるとき、変わってから、日本列島に外語がたくさん流入してきた。これから「日本」として西欧列強に追いつくために、「日本」には西欧のことばを「日本語」に翻訳することが急務となった。その任務にあたったのが、福沢諭吉とか西周とかである。 “philosophy”を「哲学」と翻訳したのは西である(はずである)。漢語との関連から(「希哲学」を経由して)「哲学」となったわけだが、「哲学」という概念をいくら掘っていっても、“philosophy”の有する深みには到達しない。「哲学」は記号としては流通しているものの、概念としてはやはり“philosophy”という元の概念を経由しないことには、その意味内容を掴むことはできない。 そのようなことを前回書いたのであった。 「哲学」も日本語になっていないと言えばなっていない。が、「哲学」はそれが何であるかわからなくはない。なぜかと言えば、理由は大きくふたつ考えられる。ひとつは、「哲学」が日本語に登録されてから多くの時間が経過しているから、そのぶん浸透しているからである。何事も“それ”が“奇異”から“普通”に変換されるには長い時間がかかるのである。理由のもうひとつは、「哲学」の原語である“philosophy”とは何か、ということが“philosophy”という概念の元にきちんと考えられているため、「哲学」とは何かを考えるさいに、そちらを経由することができるからである。「哲学」自体がわからなくても、“philosophy”がわかれば「哲学」もわかるようになる、ということである。 ここでは後者の理由付けを大切にしたい。この理由付けを「日本語になっていない概念はダメだ」にあてはめて考えてみると次のようになる。 「日本語になっていない概念はダメだ」を分解すると、「この概念はダメだ、なぜならば日本語になっていないからだ」になる。「この概念はダメだ」は、「この概念はよくわからない(だから使えない)」である。そして「よくわからない」のは「日本語になっていないから」である。 しかし、さっきの理由付けを参照するならば、「この概念はよくわからない」のその理由は、元になっている外語の概念をきちんと理解していないから、ということになる。「日本語になっていないから」は理由にならない。日本語の外からやってきたことばを日本語にするには、そのことばの元々の意味を理解した上で、そのことばと近似する既存の日本語を対応させるか、または、対応させる日本語がなければ、造り出すか(「哲学」のように)、あるいはそのままカタカナで表記するか、という3つの方法を採ることになる。 いずれにしても必要かつ重要なのは、“そのことばの元々の意味を理解する”ということである。それ抜きにそのことばを「わかる」ことなどできない。“カタカナで表記するイコールわからない”ではない。日本語に対応しないからカタカナで表記するのである。そして、そのことばに対応する日本語がないことを見定めるためには、そのことばが何であるかをまず理解しなければならない。これは逆に言えば、そのことばはどう考えても日本語にならないということであれば、それをカタカナで表記しても構わない、ということになる。無理に既存の日本語で対応させたり、漢字で表現したりすると、かえって元々の意味がねじまげられることもある。しかし、最近は“何だかわからないからとりあえずカタカナで”ということになっているようにも見受けられ、それはちょっと違うのではないかとわたしは考えている。 もちろん、“何だかわからないけれど何だか大切なことを言っていそうだ”の時点でカタカナにして日本語圏に紹介するのは構わない。だが、それは期間限定であるべきだ。そのあいだに、つまりそのことばは結局何を意味しているのか、どういう深みと広がりを持っているのかを、きちんと理解する必要がある。外語である以上その理解度に限界はあるとしても、である。その上で、既存の日本語で対応させるのか、新たな漢字表現を造り出すのか、カタカナのままにするのかを決めるべきである。 その外語に対応する日本語がなく、かつ、造り出すことも難しい場合には、カタカナで表記するしかない。このときになすべきはお茶を濁すことではなく、どうしてカタカナで表記せざるをえないのか、なぜ日本語に対応しないのかを明確に説明することである。その説明をするためには、やはりそのことばの外語での元々の意味を理解することが必要不可欠なのである。 以上から、「日本語になっていない概念はダメだ」は受け入れられないことが明らかとなる。言うべきなのは、「その外語のことばの元々の意味を理解しないとダメだ」であって、“日本語になっていない”という事実だけで「その概念はダメだ」と言ってはいけないのである。 つづく? おわり? @研究室
by no828
| 2010-11-14 18:23
| 思索
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自省のために。他者の言葉に出会うから自分の言葉を生み出せる。他者の言葉に浸かりすぎて自分の言葉が絞り出せなくなることもある。自分の言葉と向き合うからその言葉は磨かれる。よろしくお願いします。 by no828 カレンダー
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