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思索の森と空の群青

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2011年 01月 07日

少数民族のしあわせを念頭において政治闘争を行なう活動家になることを誓います——井上ひさし『一週間』

少数民族のしあわせを念頭において政治闘争を行なう活動家になることを誓います——井上ひさし『一週間』_c0131823_114755100.jpg1(323)井上ひさし『一週間』新潮社、2010年。

版元


 研究に直接は関係しない本2011年1冊目、ブログ開設後通算323冊目。元旦に読みはじめて、元旦に読みおわった。

 「頭でっかちになるなよ」と、いつであったか、板さんの叔父に言われたことが忘れられない。言われたそのときは「はい」と答えた。たぶん大学院に入ってからのことだ。今も「はい」と答えたいが、しかし研究者は頭でっかちでなければならないとも思うようになった。研究者ぐらいは頭でっかちであらねばならないのではないか。研究者は、というか、わたしという研究者は、まずは頭でっかちにならなければならない。その上で、頭でっかちなだけの人間にはなりたくないと思う。

 研究に直接は関係しない本を意識的に(頭で考えてということだけれど!)読もうと思ったのは、「頭でっかちになるなよ」という叔父のことばがあったからかもしれない。本を読むこと自体がすでに「頭でっかち」寄りのことと映るかもしれないが、本が豊かにしてくれるのは頭だけではないように思う。

 さて、本題。

 『一週間』は、著者「最後の長編小説」と、「『吉里吉里人』に比肩する面白さ!」と、本の帯にも、そして版元のウェブサイトにもあった。書籍部で迷って、結局新刊を1割引で買った。

 本書の結末は実にあっけないが、それも井上ひさしかと思った。だが、帯の文に応答して言うならば、長編の読み応えはそこまで強くなかったし、わたしは『吉里吉里人』の方がおもしろかった。『吉里吉里人』は、「国家」とは何かということを、もっと言えば“自治のひとつの形態としての国家”ということを、考えさせられる。むろん、『一週間』もまた「国家」へと迫る物語である。そして、事実(と思われること)が散りばめられてもいて(確認しなければならない)、とても勉強になる。

 以下、強調引用者。舞台は、1946年のハバロフスクの捕虜収容所。


「……捕虜情報局とは、なんでしょうか」
「戦争を始めた国は、それがどんな国であれ、捕虜情報局という機関を設置しなければならない。これは戦時国際法のイロハです。大日本帝国にもなければいけないし、ソ連邦にもなければならない。ソ連邦であれば、開戦と同時に捕虜情報局を設けて、捕虜の氏名、階級、軍や連隊の呼び名などの情報を収集する。あるいは、捕虜の移動、解放、送還、逃亡などについての情報を集める。そしてそれらの情報を、赤十字国際委員会や日本の利益情報国を通して大日本帝国へ通知する……
「……利益代表国?」
戦争をしている国に代わって、その国の利益を代表してくれるところのことですよ。こんどの大戦でいえば、大日本帝国にたいしてアメリカやイギリスの利益を代表してくれているのはスイスです。そして連合諸国にたいして日本の利益を代表してくれていたのは、初めはスペイン、のちにスイスとスウェーデンでした。つまり、ソ連に抑留されている日本軍捕虜の手紙を、ソ連の日本人捕虜情報局が取りまとめて、わが方の利益代表国であるスイスやスウェーデンに送ればいい。そうすればスイスやスウェーデンがその手紙を日本に届けてくれます。日本の留守宅からの手紙は、いまとは逆の手順でソ連の日本人捕虜収容所に届くはずです。こういったことはすでに、四十年も前の、一九〇七年のハーグの陸戦協定で決まっているんですよ。国際法の中の国際法なんです
「なるほど。それにしても中立国というのは偉大な仕事をするものですな」
「逆にいえば、中立国がなければ、ということは、利益代表国がなければ、戦争はできない勘定になる」
これからの日本は、その手で、つまり中立国として生きていったらいいなあ
「同感です」

□(179-80)


「読んでごらん。そこには若いころのレーニンの、美しい理想が書いてある」
 薄い二枚の便箋に、いまにも破けそうなほど強い筆圧で消したり書き入れたりした勢いのいい筆跡でこう書いてあった。

 〔略〕
 このごろになって、ようやくあなたの考えが理解できるようになりました。労働者たちも劣悪な状況のもとで生活しておりますが、少数民族はもっと悲惨な環境で生きて行くことを余儀なくされている。そして労働者や少数民族の境遇を引き上げるには、経済闘争では限界があります。そう、大切なのは政治闘争です。
 率直に告白すると、じつはわたしの母方にはユダヤ人やドイツ人の血が流れており、さらに父親はカルムイクの出身です。カルムイクに行くというあなたを引き止めていたときのわたしの感情は複雑でした。わたしにはたくさんの少数民族の血が流れている。とりわけカルムイクの血が濃い。わたしにはそのことに対する劣等感があった。その劣等感を隠すために反対していたのではないか。あるいはなにかの拍子にあなたが父の出自を突き止めるかもしれない、それをおそれていたのかもしれない。口では社会改革を唱えながら、こころの底には世襲貴族に出世した父親を誇る気持が潜んでいた。なんと情けない! なんという欺瞞! わたしは自分の至らなかったことをあなたの前で痛烈に反省し、少数民族のしあわせをいつも念頭において政治闘争を行なう活動家になることを誓います。帰国したらまた書きます。
 
  一八九五年四月二十日
  ウラジミール・レーニン

 しばらくの間、入江さんは便箋を持ったまま、震えていた。
だが、レーニンは自分を裏切った。この手紙を書いてから二十三年後の一九一八年の一月、彼はなんと云ったか
 老人も震えていた。
社会主義の利益は、諸民族の利益にまさると、そう言い切ったのだよ。これを言い直せば、少数民族の利益よりは社会主義の大義のほうが大事だということになる。そう、革命は堕落したのだよ
「待ってください、エラスト・ステパーノヴィチ。そう言い切るためには、自分が少数民族の出であることを伏せておかなくてはなりませんね」

□(246-7)


「……つまり、バクー駅近くの壊れた寝台車を住家〔ママ〕にヒマワリの種売りの孫娘と細々と暮していたその老いた法律学者は、旧友レーニンの裏切りに猛烈に腹を立てていたわけですな。彼、エラスト・ステパーノヴィチは大学の法科を出てからペテルブルグの法律事務所で働いていた。そこへウラジミール・イリイチ、すなわち後のレーニンが雇われてきた。二人の若者はたちまち意気投合して、ともに活動をはじめた。そのときの二人の合言葉の一つが、〈民族自決の原則〉です。当時の帝政ロシアは『諸民族の牢獄』という悪評をとっていた。周辺の少数民族を武力で征服してつぎつぎに植民地にしていたからです。このへんの事情についてはさっきも話しましたが、そもそもロシア人とは誰を指していうのか……」
□(248)


「……チェチェン人狩り?」
「例の集団再移住というやつだよ。九万人からのチェチェン人がすでにカザフスタンの奥地やウラルへ再定住させられているが、わたしもチェチェン共和国の首都グロズヌイの出身だから、再定住の対象になった。そしてバクーに住むチェチェン人の拘束日が明日だという情報が入ってきた。ここにもわたしの教え子たちが大勢いるから、いろんな情報が入ってくるんだね。もちろん知らん顔をする者もいるが、今度のようにバツーミへ逃げるよう手筈を整えてくれる者もいる」
「あなたはよほどいい教師だったんだ。だから、こうやって教え子たちが助けてくれるんですね」
「いや、いい教え子に恵まれただけだよ」

□(253-4)


今次大戦中の一九四三年、チェチェン人はナチスドイツに協力的だったという理由で、モスクワ政府によって、民族ごと根こそぎ中央アジアのカザフスタンに追放されました。キルギスタンやここシベリアに強制移住させられたチェチェン人もいました。その追放や強制移住によって五十万人のチェチェン人が亡くなったともいいます。チェチェン人がナチスドイツを解放軍として歓迎したのは、モスクワ政府による農業の集団化や宗教の取り締まりに反発したからだった。ご存じでしょうが、チェチェン人のほとんどが熱心なイスラム教徒です。モスクワ政府は彼らの生活の基礎である農業と宗教を踏みにじってしまった。そして中央の方針に対して反乱をおこすと、民族ごとそっくり他郷へ移住させるというムチャをやってしまった。いったいどこに革命の大義があるのでしょうか
□(382)


「……秘密の店?」
「表向きは店員や掃除婦たちの控室に見えますが、特別パスを示して小さなドアを入ると、そこには、キャビア、チョウザメの缶詰、輸出用のウオッカ、スモーク・サーモン、質のいい牛肉、それから新鮮な野菜や果物など、なんでも揃っています。もちろん、特別パスを持っているのは、高級軍人の家族や極東州や市役所のお偉方の家族だけです。けしからんではないですか」
「そんなことはどこの国にもあることでしょう。〔略〕」
「そのころの大日本帝国は、平等主義の旗を掲げていましたか。ここは働く者の天国だと謳っていましたか」
「……いや、そういう国ではなかった」
ところがこの国のお偉方は、ここは平等主義を唯一の原則とする地上の天国である、働く者が主人公の国であると唱えている。これはへんでしょう
「そういわれてみれば、たしかにへんですな」

□(ゲゲゲの頁数チェック漏れ → 調査中)


 思想が、また、思想を形成する営みとしての哲学が、力を持った時代があった。どのような未来がよいのか、どのような社会がよいのか、どのような人間がよいのか、そういうことを語ることのできた時代があった。

 今は語りにくい。語るための足場がきわめて脆弱である。また、語ることで生じる問題も無視できない。それでも、という気持ちと、やっぱり、という気持ちとが、わたしの中に同じくらい存在している。

 だが、社会主義とか、(少数民族の)民族自決とか、平等主義とか、わたしはやっぱり関心がある。それらを純粋に奉じているわけではないし、奉じたいわけでもないが、何か得られるのではないかとは考えている。

 意識していないし、ただできていないこともあるが、われわれは思想という服をまとっている。まとわずには生きていけない。どうせまとうのならば、どのような服がよいのか、やっぱり考えてみたいとわたしは思う。そして、「その服いいね」とか、「この服どう?」とか、そういうことを言い合える雰囲気は、とても大切だと思う。「この服どう?」が「この服いいでしょ!いいって言いなさいよ!」になると、それはとても生きにくいのだが。


@研究室

by no828 | 2011-01-07 12:42 | 人+本=体


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