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思索の森と空の群青

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2011年 01月 15日

マルクス経済学を学んでもマルクス主義者になる必要はまったくない——佐藤優『私のマルクス』

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6(328)佐藤優『私のマルクス』文藝春秋(文春文庫)、2010年。

版元




 佐藤優の本はおもしろくて、かつ、とても勉強になる。彼の本は、小説ではなく、(たぶん全部)自伝である。だから、その人、その人生に学ぶところが多いと言った方がよいかもしれない。

 今回の本では、タイトル『私のマルクス』に端的に表現されているように、佐藤における/にとってのマルクスの意味が説明されている。具体的には、著者の1975年の高校入学から、それから10年後の大学院修士課程の修了までの、マルクスとの出会いについて描かれている。出会いということで言えば、著者はマルクスとばかり出会ったわけではない。活字を通して本当に多くの、すでにこの世にいない神学者・思想家と出会った。また、生身の人間との出会いにもとても恵まれていたと言ってもよいであろう。さまざまな「先生」との出会いが、著者を形成したという側面は決して小さくない。

 ちなみに、『私のマルクス』は、ほぼ並行して読んだ植村邦彦『市民社会とは何か——基本概念の系譜』(平凡社、2010年)の、いわば参考書にも期せずしてなった。常に3、4冊同時並行で読んでいるため(と言っても同一テーマの下に意図的に集合させているわけではまったくない)、今回のように互いにつながったりすることがある。

 なお、佐藤の文体にはひとつの特徴のあることに気付いた。それは、「A(な)のでB」という接続の仕方を多用することである。「……可能なので……」「……問題なので……」「……するので……」など、「(な)ので」がとても多い。わたしであれば、「Aである。だからBなのである」とか、「Aである。そのためBである」とか、文章を分けて表現するであろうところを「(な)ので」でもってつなげているので、とても気になったのである。


 マルクス経済学を学んでもマルクス主義者になる必要はまったくない。資本主義システムの内在的論理と限界を知ることが重要なのだ。人間は、限界がどこにあるかわからない事物に取り組むときに恐れや不安を感じる。時代を見る眼から恐れと不安を除去するために二十一世紀初頭のこの時点で『資本論』を中心にマルクスの言説と本格的に取り組む意味があるのだ。
□(15)

 御意。

 あまり関係ないが、卒業論文は限界自体の存在を知らずに書くもの(だから書けてしまう)、修士論文は限界自体の存在には何となく気付きつつもその限界が一体何であるのかはわからずに取り組むもの(だから苦しむ)、博士論文は限界の存在もその内実もわかった上で取り組むもの(だから……?)、だと思う。


私が「なぜ学習塾の先生をやめたのですか」と尋ねると、「本業の仕事が忙しくなったことと、あとカネをとって知識を伝授することはやってはいけないと思うようになったからだ」と答えた。
□(39)


 教師はしばらく沈黙してから言った。
「革命をしたいと思っていたが、僕は逃げた。佐藤君、人間は誰にも逃げなくてはならないようなときがある。そのとき重要なのは『俺は逃げた』ということを正確に記憶しておくことだ。逃げたのに闘っていると誤摩化すのがいちばんいけない

□(41)


「先生がいうインテリとはどういう意味ですか。大学教師クラスの知識をもつことですか」
「そうじゃない。インテリとは自分が現在どういう状況にいるかを客観的に知ることだ。そのためにはマルクス経済学を勉強するのが早道だけど、それ以外の道もある」
「どういう道ですか」
「たとえば哲学だ。〔略〕カントをきちんと学ぶことだ」

□(101)

 これに関連して、以下。


 宇野 ぼくはこういう持論を持っているのです。少々我田引水になるが、社会科学としての経済学はインテリになる科学的方法、小説は直接われわれの心情を通してインテリにするものだというのです。自分はいまこういう所にいるんだということを知ること、それがインテリになるということだというわけです。経済学はわれわれの社会的位置を明らかにしてくれるといってよいでしょう。小説は自分の心理的な状態を明らかにしてくれるといってよいのではないでしょうか。読んでいて同感するということは、自分を見ることになるのではないでしょうか。
 河盛 これはなかなかいいお話ですね。つまり小説によって人間の条件がわかるわけですね。
 宇野 ええ、そうです。われわれの生活がどういう所でどういうふうになされているかということが感ぜられるような気がするのです。小説を読まないでいると、なにかそういう感じと離れてしまう。日常生活に没頭していられる人であれば、何とも感じないでいられるかもしれないが、われわれはそうはゆかない。自分の居場所が気になるわけです。

□(102-3)

 原著は、宇野弘蔵『資本論に学ぶ』(東京大学出版会、1975年、pp. 209-10)に収められている、フランス文学者の河盛好蔵(かわもり よしぞう)との対談「小説を必要とする人間」です。佐藤の本にも引用元はきちんと挙示されていますが、念のために図書館で借りて確認しました。古書を買おうかと思いましたが、高いので止めにしました。  


現在の私は国家主義者を自認しているが、少しだけアナーキズムの影もある。国家は重要であるが、国家が社会全体を包摂することは不可能である。国家に包摂することが原理的に不可能な家族、教会、趣味のサークルなど、部分社会はいくつもあるのだ。この部分社会については人間の自治に完全に委ねられるアナーキーな場があると考えるからだ。
□(107)


重要なのはほんとうに好きなことが何かです。ほんとうに好きなことをやっていて、食べていくことができない人は、私が知る限り、一人もいません。ただし、ここで重要なのはほんとうに好きなことでなくてはいけません。中途半端に好きなことでは食べていくことができません
「先生にとってほんとうに好きなことが学校の先生なのですか」
 堀江先生は少し考えてから、「そうです。私は高校生に哲学や倫理を教えることがほんとうに好きなのです。就職について思い煩う必要はありません。かならず道が拓けます」と答えた。

□(119)


 同志社には耳慣れない独自用語がある。たとえばキリスト教主義学校というのもその一つだ。同志社はミッションスクールという言葉を嫌う。ミッション(宣教団)スクールというのは欧米が日本を植民地とするための道具としてキリスト教を看板にした学校をつくったのであるというのが神学部の自己理解だ。
□(121)


 ちなみにドイツでは総合大学と称するためには、神学部を擁している必要がある。
□(133)


真理を保持するのが目に見えるカトリック教会か、神秘的な正教会か、またプロテンスタンティズム多数派が考えるような見えない教会であるかについて、キリスト教世界で議論があるように、マルクス主義の世界ではかつてコミンテルン(共産主義インターナショナル=第三インターナショナル)の公認を受けた共産党か、それともそれぞれに正統派マルクス主義を継承する共産主義運動体(セクト)のうちどの組織が革命(救済)の主体であるかについて種々の議論がある。しかし、救済が既に担保されているという論理構成は類比的だ。
□(144)


あるとき野本真也神学部教授が私たちに「神学には秩序が壊れている部分が絶対に必要なんです。だから神学部にアザーワールドのような、既成の秩序に収まらない場所と、そういう場所で思索する人たちが必要なんです」といっていたが、これはレトリックではなく、神学部の教授たちは、あえて通常の規格には収まらない神学生たちの活動場所を保全していたのである。
□(202)

 大事だと思います。一度、大学院の中にもこういう場所を作ろうと働きかけたことがありますが、却下されました。わたしの所属する組織はきわめて保守的です。もちろん、何かを守ることは必要です。必要なのですが、しかしわたしの所属する組織が守っているのは伝統とか体裁とか、そういうものです。


 廣松〔渉〕氏は、マルクス、エンゲルスの主著である『ドイツ・イデオロギー』(一八四五〜四六年に執筆)の流布版定本となっている〔、〕モスクワで編纂され一九三二年に公刊されたテキストに対して誰も疑念をもっていなかった一九六五年に〔、〕東京大学の大学院生でありながら季刊『唯物論研究』第二十一号に「現行版『ドイツ・イデオロギー』は事実上偽書に等しい。この事実はマルクス・エンゲルスの著作のなかで『ドイツ・イデオロギー』が占めている特異な地位と比重とを考えるとき、由々しい問題だと云わねばなるまい。〔略〕」(廣松渉「『ドイツ・イデオロギー』編輯の問題点」『マルクス主義の成立過程』至誠堂新書、一九七四年、一四八頁)との論考を発表し、マルクス研究者の間で注目された。
□(221-2)

 !

 これは原著にあたらずに孫引きしています。というのも、わたしにとって衝撃であったのは、引用文の内容ではなく、学界で注目されるような論文を大学院生のときに書いた、という、そのことだからです。


「〔略〕現実に存在する社会主義においてはほんとうの意味での宗教批判がなされていない。だから、レーニン、スターリンの個人崇拝や共産党に宗教的に帰依するという現象が起きるんだ。ロシア共産主義は宗教現象だよ。〔略〕」
□(234)


惚れるときは、大きな思想家に惚れないといけない。小物の思想家に惚れると、結局、時間を無駄にする
「どういうことですか」
「僕は失敗したと思うんだ。惚れた思想家が小さすぎた。佐藤君には僕がしたような失敗を繰り返してほしくないんだ」

□(251)


結局、一人ひとりが、自らの足場を掘り下げていくしかないと思うんだ。学問にしても、人生にしても。究極的なところでは群れたらだめだ
「それはちょっと淋しい気がしますね」
「淋しいけれど、そうなんだと思う。しかし、問題はその先だ。一人ひとりが足場を掘り下げた地下には、この鴨川のような地下水脈が流れているのだろうか
「どういうことですか。先生がおっしゃることの意味がよくわかりません」
「実は僕もよく意味がわかっていない。人生なり、研究なりを真剣に掘り下げて、その先に他の人々ともつながる地下水脈はあるのだろうか。もし、ないならば、僕は一生かけて水の出ない井戸をただ掘っているだけになるんじゃないか

□(266-7)

 わたしは、あるのではないかと思っています。何となく、ですが。


パワーポイントを使った説明は、その場では理解したような感じになるんです。それで酒を飲んで寝て、翌日起きたら、おそらく五パーセントも定着していません。アメリカ人はその場でわかればいいという発想の人たちです。これに対して、今日、ここにいらしているクラウス・シュペネマン先生をはじめとするドイツの人たちは、その場で理解したつもりになるのではなく、ほんとうに理解し、しかもきちんと記憶に定着させないと許してくれません。そのためには、話を聞くのに集中する環境を作ることが必要です。話以外の資料はない方がいいのです。
□(358-9)

 御意。だからわたしはパワーポイントは使いません。逆に言えば、聴衆に話の内容を定着させたくない場合は、パワーポイントを使えばよいということです。でも、それなら発表自体しなくてもよいのでは、と思います。そうすると、学会大会での研究発表がほとんどなくなってしまいますね、あはは。


@研究室

by no828 | 2011-01-15 19:40 | 人+本=体


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