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思索の森と空の群青

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2011年 01月 30日

人間の本当の能力とは問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ——森博嗣『冷たい密室と博士たち』

人間の本当の能力とは問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ——森博嗣『冷たい密室と博士たち』_c0131823_1474329.gif10(332)森博嗣『冷たい密室と博士たち Doctors in Isolated Room』講談社(講談社文庫)、1999年。


版元


 S&Mシリーズ第2弾。第3弾、第4弾をすでに読んでいるから、戻って読んだことになる(話は時間的に連続しているが、戻ったからわからなくなるということはない)。某アマゾンで1円であったため(手数料込251円)、買ってしまうことにした。某ブックオフで探して105円で買うのをあきらめた。

 以下、“研究とは”にかかわるところを中心に。



 そう、試験とは本来そういうものだ。誰でも解ける問題を出して、落ちこぼれを見つけるのではない。解けそうにない問題を出して、秀でた才能を発見するためにある。しかし、これを言っては喧嘩になるので発言はしない。〔略〕
 犀川は、自分の授業でも試験は一切しない。問題を解くことがその人間の能力ではない。人間の本当の能力とは、問題を作ること。何が問題なのかを発見することだ。したがって、試験で問題を出すという行為は、解答者を試すものではない。試験で問われているのは、問題提出者の方である。どれだけの人間が、そのことに気がついているだろう。

□(10-1)

 御意。少なくとも研究者にとって大切なのは、問題解決よりも問題発見である、と基礎系のわたしは言ってしまうが(哲学の仕事は問題発見である)、もちろんこれには異論があろう。すでに誰もが認めるような“問題”がある場合、求められるのは解決行為であって、それに疑義を差し挟みうる発見行為ではない、ということになるであろう。哲学者がいちいち出てきて疑っていては事は前に進まない(哲学者は「前に進む必要があるのですか」と言うであろう)。

 学類の頃はとことん問題解決型の知を受け取ってきたが(そういうカリキュラムであったし)、今のわたしはもうだいぶ違う態度を持つ人間になったように思う。むろん、今から振り返れば、すでに学類の頃にその萌芽はあったわけだが……。何人かの人がそれを共有してくれたことが嬉しかったが、その「何人か」は学生であって教員ではなかった。たぶんあの先生やあの先生とじっくり話をしたら、何らかの応答は示してくれたはずだとは思うが、学類の頃のわたしにとって教員は遠い存在であった。だから、萌絵が積極的に先生に議論をしかけたりするのを見ていると羨ましくもなる。


(あれだけのことを決めるだけに、どうして三時間もかかるのだろう)
 日頃、研究室に閉じ籠もっているから、会議というものが一種の社交場とでも思っているのかもしれない。異人種たちは、それが必要な「親睦」だと感じているのだろうか。おそらく、そうだろう。頭脳明晰な人間たちが、あんな無駄話をするというのは、そうとしか考えられない。その動機は認めよう。間違った感情ではない。人間にはそういった弱さがあるものだ。ただ、自分のような他人種を巻き添えにしないでほしい、と犀川は思う。望みはそれだけである。

□(14)

 こういうことはわたしにも思い当たる。会議ではない。読書会などだ。はじめるまでに無駄話をしてしまう。それで10分ぐらい無駄にする。それはまさに日頃閉じ籠もっているからで、だから話がしたいからにほかならない。そして、話してしまって後悔する。無駄なことをしたと、そう思う。わたしの「弱さ」だということになる。


「面白ければ良いんだ。面白ければ、無駄遣いではない。子供の砂遊びと同じだよ。面白くなかったら、誰が研究なんてするもんか
□(65)

 税金を投じてすぐには役に立たない研究をすることは無駄遣いかもしれないね、という話になったときの犀川の答え。


建築って、アーキテクチャを訳した新語だから、明治以降だと思います。歴史がないの」萌絵は言う。「絶対、土木の方が素敵……」
□(102)

 「建築」も新しい訳語なのか。

 マルクス主義の思考枠組みを形成するものに、下部構造と上部構造とがある。すでにご案内のように、下部構造つまり経済が、上部構造すなわち政治を規定する、というあれである。先日、中国人留学生と話をしていたら、中国では下部構造を「経済基礎」、上部構造を「上層建築」と言うことがわかった。「建築」だけだと日本語的な意味合いを持つらしいのだが、それに「上層」がくっつくと、「経済基礎」によって規定される政治などの上部構造を意味することになるらしい。マルクス主義にかかわる中国語は日本(語)を経由して作られた側面が強い、とその留学生は言っていた。


 外に出る。突き刺さるように、雨が真横から二人を襲った。
 足をすくわれるような風圧が大きな振幅で息をしている。地球のジュースでも作ろうというのか、大気はミキサで攪拌されているようだ。少しでもジャンプすれば、もとの位置には戻れない。雨は吹き上げ、空気は飽和し、狂気で沸騰している。

□(341)

 これは純粋に表現としておもしろいと思った。


「それじゃあ、僕なりに解釈していることを話しましょう。もっとも、問題を解くことに比べて、解答の意味するところを思慮することは格段に困難です。それに、こういった人間の感情を言葉で表現すること自体、円周率の小数点以下を四捨五入するみたいで、気持ちの良いものではありません。ここからさきは本当に、憶測というよりも、僕なりの消化のしかただと思って下さい。〔略〕」
□(386-7)

 解答を出すことと、その解答の意味を考えることとは別のこと。

 科学と、哲学と。


「でも、学問というのは本来虚しいものですよ」
 そう、本来、外部から傷つけられるようなものではないのだ。
〔略〕
学問の虚しさを知ることが、学問の第一歩です。テストで満点をとったとき、初めてわかる虚しさです。それが学問の始まりなんですよ」

□(397)

 学問の虚しさ、か。


「犀川先生なら、どう答えられますか?」国枝桃子が無表情で尋ねた。「学生が、数学は何の役に立つのか、ときいてきたら」
何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す」犀川はすぐに答えた。「だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね」
「何故、役に立たなくてはいけないか、ですか……。うん、それはいい」と高校教師が呟く。
「そもそも、僕たちは何かの役に立っていますか?」犀川はおどけて言った。

□(399)

 役に立つか立たないかという価値規準は、本来あくまでひとつの価値規準であるわけだが、それが唯一絶対の価値規準となって社会を覆っている。個人的には、これには反対だ。だが同時に、日常を回していくためには、役に立つことがどうしても必要になる。役立たずばかりでは日常は破綻する。とすると、音楽や芸術(このふたつの並置はカテゴリ・ミステイクだと思うが)は日常ではない、ということになり、だからこそ芸術を日常に入れこもうとした運動があったりもしたわけか。そしてそれは、役に立つことばかりが求められる社会に対する抵抗でもあったわけか。


「内緒と沈黙は、どこが違う?」
 犀川は独り言を呟く。
「内緒は、人間にしかできない」

□(403-4)


 わたしが引用を行なうのは、読後感想を自分のことばで書くことがあまり得意ではないという、きわめて消極的な理由からだ。感想をことばにするためにかかる時間は、引用する時間よりもたぶん長くなる。引用への積極的な理由付けとしては、後から振り返って自分はこういうことばに引っかかっていたのだということがわかって、そのときの自分がどういう自分であったかに思いを致し、そのときの自分と今の自分との違いを考え、それが自分を知ることにもなるであろうから、というものだが、これは後付け感がとても強い。(これは研究者友人へのひとつの応答にもなろう。)

@研究室

by no828 | 2011-01-30 15:13 | 人+本=体


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