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思索の森と空の群青

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2011年 07月 12日

男女なのにそんな関係なのがいやなの!あたしとはべつに対等な高さに——姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』

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49(371)姫野カオルコ『ツ、イ、ラ、ク』角川書店(角川文庫)、2007年。

※ 単行本は、2003年に同書店より刊行。

版元




 同級生集団の小学2年生から34歳までの展開、その軌跡。この書き方は、以前読んだ姫野カオルコ『終業式』と同様である。(→ )全529ページの記憶。

 人は人を好きになり、それゆえにその人を、あるいは別の誰かを嫌いにもなる。好きであるのに好きではないことにして別れ、そして別の誰かを好きになったことにして一緒になり、それでも誰とも一緒にならなかった人がやっぱり好きであった人と結ばれることの「 」。この空白には何ということばを入れればよいのか。


「おい、ハル、知ってるか? 放送室の前の壁にはな、ヨコハマと森本がアイアイガサを、でっかいもんに書かれとるで」
 書いたのは塔仁原である。彼はハルが好きだった。ハルに佐々木を見てほしくなかった。彼女に彼を近づけたくなかった。
「ほんま?」
「嘘やない」
 そや。嘘やない。嘘なんかつかへん。佐々木と森本はぜったいなにかある。自分にはわかる。自分が書かへんでも、いずれだれかが書きよることや。
 落書きは正当なものだと、塔仁原は落書きをした行為を許した。

□(77)



 交換ノート。これが中学生サロンでいかなる意味を持つか、若さを失った者はもう忘れてしまっただろうか、あの行為の実感を。交換ノート。「ノート」の部分を「指輪」に換えれば過去の実感を思い出してくれるだろうか。
 交換とは、じつに発音のとおり、交歓である。指輪よりもノートをかわしあうほうが、「たかだか中学生」だったときのこの交歓のほうが、「たかだか」ではなくなった年齢になっておこなった交歓よりもはるかに熱く官能的だったではないか。
 京美はまあたらしいノートを太田にわたした。ノートの端を持ち、腕をさしだし。

□(166)



 京美は統子に言う。中学生がスパイスがわりの浮気などいかがなものかと顰蹙するのは死を控えた動物だけで、十代とは四六時中性欲があふれているホモサピエンスなのである。性欲という言い方におためごかしな花柄カバーをつけてほしいなら、「恋に恋する」とでもしておく。
□(174)

「おためごかし」は「御為倒し」。意味は、「表面は相手のためになるように見せかけて、実は自分の利益をはかること」らしい。



 小野遠栄という人の詩がある。男の人。福島県生まれって書いてあるけど、(一九二一〜)ってなってるから、すごい長生きな人だね。室生犀星に師事。詩集に『広大の群青』『おるがん練習』。
□(210)

 おぉ福島、と思って Google 先生に訊いてみたら、どうも小野遠栄という詩人は実在しない模様。



「あいつ、ほかのうるさい女子と違ごて、すご大人っぽいやろ。あれ、家庭環境の影響や」
「すこしはね」
 河村の反応が、三ツ矢は不服である。
「すこしは、て、それどういうことなん?」
「すこしは関係あるかもな、ってことさ」
 河村の父母が離婚していることを、
〈それが礼二さんの今の性格をつくってるんやわ〉
 そう分析する女がいて、そう言われるとしらけた気分になる。家庭環境は人格に多大な影響を与えるだろうが、だからといって、父母の離婚というたんなる一事実だけが自分の性格を形成したとは思えない。

□(235-6)

 ちなみに、この分析女子は、物語の設定上「宮古女子大学文化人類学部心理学科卒」ということになっている。違和。違和違和。日本の大学で「文化人類学部」のあるところはたぶんないのではないか(アメリカにはあるけれど)、そして文化人類学(部)の下に心理学(科)は入らないのではないか(たぶんアメリカでも)、という2点。



 隼子は父母に変速機付の自転車と麦藁帽子をねだった。幼いころから物をねだることが皆無に近かった娘がねだったので、父母はよろこんだ。物質をねだられ、物質を与える。この行為ほど要求された者にとってわかりやすく、実行容易な幸福はない。
□(290)



「なにが知的や。女はそらええわ、化粧っちゅうもんで誤摩化せるもんな。ズルや。それに耳やら首やら腕やらにキラキラしたもんつけて、そっちに目逸らさせといて、ハイヒールはいて足首細そ見せて、ふわっとした洋服着てたらウエストのあたりかて隠せるやないか」
 そう言われてみればそうだと統子はマドラーを回転させる。〔略〕
「塔仁原くんの言うとおりやわ。なあ、考えてみたら、中学のときて、いっさいのフォローなしやったんやなあ」
 あのころほど、男が男そのものであり、女が女そのものである時期はない。男が女に対する、女が男に対する欲望が、もっとも正確に、もっともそのままのかたちで、遠慮会釈なく表面に出る時期。化粧もアクセサリーも洋服も靴も時計も車も会社名も、その人間をラッピングしてはくれない。髪型でさえ校則規定があった。アルコールもインテリアも音楽も、雰囲気をラッピングしてくれない。DNAの出所と分散である親きょうだいの顔や職業、住んでいる家の大きさや建ち具合まで剥き出しだった。実寸で、男は女を、女は男を、見ていたのである。思えばじつに中学校とは残酷な場所である。

□(431-2)

 これは、2文については大学に入ってからよく思った。当時はほとんど意識していなかった。あの人はああいう家に住んでいる、親はこういう仕事をしている、兄貴は不良だ、……、だから何なのか、それはつまりどういうことなのかとは、しかし当時は考えなかった。“そのようにある”ことを“そのようにある”ものとして受け止めていた。“そのようにある”ことの「意味」までは考えていなかった。それを大学に入ってから考えるようになった。いまから振り返れば、という限定を付さなくてはいけないが、「じつに中学校とは残酷な場所である」と、田舎の公立中学に通ったわたしも、思う。いや、“そのようにある”ことを“そのようにある”ものとして受け止めてしまうことこそ、残酷なのか。



 音楽教師になったころ、勅使河原は大恋愛をした。それが現在の妻である。妻は隼子を心よく思っていない。目の敵にしていると言っても過言ではない。肉体関係のあったほかの女や、関係のできそうな女のことには目をつぶるのに、隼子のことだけははっきりと嫌う。
〈男同士の漫才コンビのようなつきあい〉であるとたとえ、〈なんでそんなに疑うんや〉と訊いたことがある。妻はそばにあった物をつぎつぎと投げて壊し、泣きわめいて答えた。〈これっぽっちも疑ってなんかいない!〉と。
男女なのにそんな関係なのがいやなの! あたしが入れないから。あたしとはべつに対等な高さにいるから
 妻の答えは勅使河原には理解できないものだったが、世の中には、ある女とセックスをしたことよりも、セックスをしないことで、妻や恋人から怒られたり泣かれたりする男は存外、多いのである。

□(478-9)



「……どうかしてることを恋というのよ」
□(481)


@研究室

by no828 | 2011-07-12 14:06 | 人+本=体


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