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思索の森と空の群青

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2011年 07月 29日

農業漁業をやめるなと言うことは「貧乏に耐えろ」と言うことと同じ——吉本隆明・辺見庸『夜と女と毛沢東』


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61(383)吉本隆明・辺見庸『夜と女と毛沢東』文藝春秋(文春文庫)、2000年。

※ 単行本は1997年に同春秋より刊行。

版元




 吉本と辺見との対談集。



辺見 奴隷というのは、奴隷同士の会話では互いに主人の自慢をしあって、「俺の主人の方がよっぽど立派だ」みたいに張り合うらしいですね。
□(24)



吉本 ただ、ここを離れずに動かなくてもわかることは、いっぱいあると思うんです。たとえば僕がある時期に熱中していたヘーゲルやマルクスの歴史認識、歴史理解の概念、一言でいえば「段階」という概念ですが、これは圧倒的な認識力をもたらしてくれたと思っています。たとえばヘーゲルは『歴史哲学講義』で世界史をアフリカもアジアも含めて縦横無尽に説いていますが、勿論、彼はアフリカもアジアも行ったことがない。しかしこの人の認識は実に的確だと思います。見事な抽象化、普遍化だと感嘆します。
 ですから僕はここにいて離れずに、ヨーロッパのこともアメリカのことも、だいたい理解できていると信じています。概念の形式を使って、相当なところまで物事は把握できると信じています。とはいえ、実際に体験しなきゃ危ないぞという懐疑は、いつでも抱えてきたと思ってはいるのです。

□(46-7)

辺見 吉本さんは直接的経験を、どこかで執拗に拒否しようとされておられるように見える。
□(198)



吉本 連合赤軍のときにもやはり〔地下鉄サリン事件と〕同じような空気になって、赤軍側に理解を示すような発言をしたら抹殺されかねないような有り様でした。そのとき加賀乙彦さんが、あれは気違いのやっていることだから情状酌量の余地はない、という発言をされた。僕はそりゃあまりに単純な見方だと憤慨して、反論したことを覚えています。そうじゃない、人間性の中にはある条件が揃って追い詰められると、敵を作りだしてこれを粛清するという習性が含まれているんだ。連合赤軍事件は例外的なケースじゃなくて、いつでもどこでも起こりうることなんだ。自分だけがそういう条件から免れていると思うのは間違いだ、と反駁しました。
□(61)



辺見 要するに、〔地下鉄サリン事件では〕敵が明確に措定されていない。
吉本 そうなんです。
〔略〕
辺見 「敵を措定しない」というのは近代思想の中にはなかったですね。そういう新しい暴力の形を彼らは不意に差し出してきた。

□(62-3)



辺見 〔阪神大震災で〕もう一つ驚いたのは、数日たって水が出て、電気が回復したりするわけですけれども、現地の若い人たちの多くが何に一番喜んだかというと電話だというんです。つまり水とか光とかいう生活の実感よりも、常に関係性というんですか、人と人との関係をこよなく願っている。僕はその話を聞いてちょっとギクリとしましたね。
□(76)



辺見 重みのある言葉なんかテレビからは出てこない。だから『朝まで生テレビ』なんかくだらない討論番組は僕は見ない。あれは思考を刺激するのではなく、感情を刺激するだけの、論理圧殺番組です。第一、人をゆっくり喋らせないでしょう、あの番組は。あれが嫌なんです。テレビに出て一番嫌なのはそれなんです。所与の単位時間でモノを喋らせる。テレビは言い淀むということを許さない世界ですから。しかし人間はやっぱり言い淀むものだと思う。
□(100-1)



吉本 いや、それは全くその通りです。恋愛とか性というのは行為であって認識ではないですから
□(163)



辺見 最近、ヘルマン・ヘッセについて書かれたものを読んでドキッとしたんです。彼は家庭がうまくいってなかった。さっぱりダメだった。だから大きな仕事ができなかったと。彼はファシズムに対して批判的な言説を残しています。しかしそれを充分に展開しうる安定性が、作者の側になかったと言うんですね。
□(165)



辺見 開高健が書いていたハイエナ・コンプレックスという言葉を思い出します。彼は作家だけれど新聞社の特派員のような立場でよくヴェトナムやアフリカへ行っていたでしょう。飢えたり戦争をしている人間たちを取材して、自分は空調の効いたホテルでものを書いて、一枚いくらの原稿料をもらう行為に、腐肉をむさぼるハイエナのようないかがわしさを感じていたというんですね。彼はそれをハイエナ・コンプレックスであると書いているのです。一見派手にやっていた開高さんの、そこがいいところですね。
□(201)



辺見 いま大量殺戮というものをしからしめるのは軽薄さというか、思想の薄さなのかもしれないと思いました。米国の歴史心理学者のロバート・リフトンは、崇高な思想が大量殺戮を可能ならしめると語っていますが、この逆も今はあり得るかもしれないということです。
□(206)



辺見 今、アメリカで流行っている言葉に「ニンビー」(NIMBY)というのがあります。これは「not in my backyard」——のアクロニムで、俺んちの裏庭じゃまっぴらご免だよ、というのが直訳ですね。どういうふうに使うかというと、たとえばホームレスに対して援助するのは賛成だけど、でもわが家の庭に彼らに入り込まれるのは嫌だよ。たとえば原発は絶対反対、しかし今までのエネルギー消費のスタイルを変えるのは嫌だよ。有事立法についても口では賛成、でも自分が兵隊に行くのは嫌だよ……。つまり総論賛成・各論反対、高邁に世界を語り、世の不正を憂えもするけれど、わが身は世界から切り離すという、日本でも典型的な考え方ですね。こうした、わけ知り顔で手前勝手なご都合主義の態度を称して「ニンビー」というわけです。
□(233)



吉本 今の保守の人は外国から侵略があったら、自衛隊が自衛権を発動して、戦争をやって国を守ってくれるという考え方をしていると思うんですが、僕はそういうのはダメなんです。
 なぜかと言うと、自分が自衛隊の兵隊になれない限りは、防衛力は必要だとか、自衛権はあるんだなんて言うまい、というのが僕の考え方なんです。どこかの国が日本に攻めてきたとして、俺は何もしないけど、自衛隊が代わりに戦ってくれるだろうというのは、僕は戦中派として絶対に認められないんですね。反対に、自衛隊が戦わなくても、俺は自分で何かするかもしれないぜ、と思うことはあるんです。だから僕は、戦後民主主義の人みたいに絶対平和主義ではないんです。やり方はともかく、攻めてきたら、個人の喧嘩を吹っ掛けられたときと同じです。「おう、やってやろうか」って気持ちはあるんです。
辺見 私は吉本さんからまさにそのことをお聞きしたかったのかもしれない。

□(242)



吉本 以前、米不足で日本中大騒ぎになったことがありましたね。そのときも僕はこう言いました。自然相手の第一次産業はこれから縮小する一方で、これ以上拡大はしない。魚をとるのもお米を作るのもやめたい人はやめたほう〔ママ〕がいい、と。
 これ、大変な暴論に見えるでしょう。しかし漁師や農家に今の仕事をやめるなと言う方が横暴ではないのか? いいですか、漁業も農業もこれに従事しているかぎり、都会の消費産業に従事している人のように富を蓄積することはむずかしい。要するに農業をやめるな、漁業をやめるなと言うことは、「お前ら貧乏に耐えろ」と言うことと同じなんですよ。こっちの方がよほど傲慢無礼な物言いじゃないですか。
 あのときも共産党や社会党、物わかりのいい顔をした知識人たちは、みんな農業を大切にしろと叫んだ。しかし僕は敢えて反対の立場をとって、「お前ら、貧乏を他人に押しつけて平気なのか。そういう思考が反動的なんだ」と反駁した。〔略〕「俺、もうやめた。こんなのシンドクておカネが入らなくて、少しもゆとりがない。こんな職業はやめて他のことをやりたい」という人が出てきたら、それこそ転業資金を貸し付けるなり、提供するなりして、しかるべき施策をとって、やめたい人はやめさせた方がいいと思う。また何としても漁業を守るんだという人がいれば、産業資金を提供して精一杯の援助をしてあげる。そういう問題の解き方しか僕にはできないんです。
 じゃあ日本の食糧供給はどうなるんだ、と糾弾されるでしょう。それに対しては、世界的な地域役割分担に頼らざるをえない。ただしその役割分担に対する見返りとして、相応の贈与をおこなう、と僕は答えるしかない。

□(263-4)


@研究室

by no828 | 2011-07-29 17:47 | 人+本=体


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