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思索の森と空の群青

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2011年 08月 22日

いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまう——須賀敦子『ヴェネツィアの宿』

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70(392)須賀敦子『ヴェネツィアの宿』文藝春秋(文春文庫)、1998年。

※ 単行本は1993年に同春秋より刊行。

版元




 須賀敦子のエッセイ集。ヨーロッパ留学時代の須賀、“家族へのゆるし”の物語。引用は、もちろんいつものようにそうした本筋とは関係なく。

(帰省していた実家福島について書こうと思ったが、どうも乗り切れない。書くならば乗ったときに書かないといけない。実家では末弟がインターネットを引いて無線LANを設置したが、わたしのパソコンからはアクセスできなかった。
 今日はひとまず、読書記録を。)


 フランスの個人主義を、彼女はきびしく批判することがあった。
「フランス人はつめたすぎる。私たちは生まれつきのジャンセニストなのよ。自分にきびしいあまり、他人まで孤立させてしまう」
「でも」反論せずにはいられなかった。「あなたはフランス人だから、そんなふうに個人主義を平然と批判できるのだと思います
 私の意思を超えて言葉が走った。
あなたには無駄なことに見えるかも知れないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩き出さないと、なにも始めたことにならないんです
 こちらのけんまくにのまれて、マリ・ノエルはすこし茫然としている。開けはなした窓から、庭で遊んでいる幼稚園の子供たちの声がとびこんできた。

□(104)

「私たち」というのは、もちろん「日本人」を指す。「近代」とどう関係するか、という問いの具体のひとつがここにある。「近代」の内にいる人は「近代」を批判し、「近代」の外にいる人は「近代」を体験・経験したくなる。この意味においても、“外からの批判はありえない、批判は内からのみなされうる”ということになるのか。

 ちなみに、文中の「ジャンセニスト」は、キリスト教思想のひとつである「ジャンセニスム(ヤンセン主義)」を信仰する人を指す。ジャンセニスムは、予定説から影響を大きく受け、人間の自由意志を軽視するようである。



 一九六八年を境に、若者たちの政治抗争が夫のいた書店にも及んで、仲間たちを苦しい対立に追い込んだのだったが、ぎりぎりの暮しだった私には、物質的にも、精神的にも、闘争にかかわるだけの余裕がなかったし、根本的にはイタリアの政治問題であることがらに、自分がどこまでかかわれるのか、また、かかわるべきなのか、皆目わからなかった。そんな時勢の流れのなかで、私は、カロラの、自由というのか奔放というのか、人や物事にたいするこだわりのなさに、深い安らぎを感じた。若者たちのいう、高くかかげた炬火ではなくて、暗い草むらで点滅する、たよりない蛍火のような、この家の空気に、私は、すくわれる思いだった。身近な死が、白黒のはっきりしすぎた答えの恐ろしさを教えてくれたのかも知れない。
□(174-5)

 この時期の須賀については、『コルシア書店の仲間たち』(→ )に詳しい。



 そこまで言うと、私のあたらしいルームメイトは、忘れてた、というように、あわてて、ベッドから片手をのばした。
「カティア・ミュラーです。たぶん、秋までパリにいるつもり」
 ゆっくり本を読んだり、人生について真剣に考える時間がほしかったので、仕事をやめてフランスに来た、と彼女はひと息に話した。初対面とは思えない率直さだった。ここに来るために、戦後すぐに勤めはじめた、アーヘンの公立中学校の先生をやめてしまったという。しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい。いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ。
〔略〕
 そういうことをするためには、自分の国〔=ドイツ〕をはなれたほうがいいと思って、パリに来ることにしたの。あの戦争をした私の国の人たちのものの考え方には、ついていけない事柄が多すぎるから。
 話から察したところでは、カティアは私より十二、三歳うえ、そろそろ四十に手のとどく年頃らしかった。戦争のなかで育って、「お上」がつくった「当局の方針」という人生のプログラムに知らず知らずのうちに組み込まれていった私の世代にくらべて、彼女たちには、戦争についてのなんらかの意見や選択の余地があったはずで、それだけに、苦しみも大きかったかも知れないのだが、戦争の年月をこの人はいったいどこですごしたのだろうか。ドイツを覆ったあの狂気とはどのように対決したのだろうか。それとも、私たちの大半がそうであったように、無力な沈黙を強いられていたのか。

□(209-10)


 私が大学や図書館に出かけているあいだ、カティアはほとんどいつも部屋で机にむかっているらしかった。彼女は夏までにエディット・シュタインの著作五巻を読破するのだといって、気の遠くなりそうにぶあつい哲学書を、本に首をつっこむようにして、読みふけっていた。
 一八九一年に、東部ドイツユダヤ人の家庭に生まれたシュタインは、ゲッティンゲンやフライブルク大学で哲学をおさめ、現象学派を創始したフッサールの助手をつとめるなど、学究の分野で頭角をあらわしたが、三十歳のとき、カトリックの洗礼をうけて私立高校の教師になった。やがてナチスによるユダヤ人迫害がはじまると、彼女は、同胞の救済を祈るために、カルメル会の修道女として生涯を捧げようと決心する。しかし、迫害が修道院にも波及しそうなのを知って、オランダの修道院に身をかくし、いったんは難をのがれたが、まもなくドイツ軍のオランダ侵攻とともに秘密警察に捕らえられ、一九四二年アウシュヴィッツのガス室で死をむかえた。

□(213-4)

 こういうのを読むと、“自分ももっと勉強しないと”って思う。今回はそれから、「どうせ惚れ込むなら大物の哲学者・思想家にしなさい。小粒を掘り下げたって何にも出てこないよ」と、以前甘木先生に言われたのを思い出した。



 毎週、金曜日の夜、フォブール・サン・ジャック街のドミニコ会修道院で、労働司祭がミサをおこなっていて、そのあと、おなじ場所で旧約聖書の勉強会があると教えてくれたのは、シュザンヌだった。行ってみたら、と彼女は言った。なにか、あなたの探しているものが見つかるかも知れないし、だれか話のできる人に会えるかも知れない。
 昼間は工場などで一般の人たちと働き、余暇の時間に司祭の責務をはたすという、もとは戦時の対独レジスタンスから生まれ、戦後、フランスの教会から欧米各国にひろまった労働司祭の運動が、ローマの教会当局の批判を浴びて全面的に禁止されたのは、ちょうどそのころだった。この運動を理論的に推進していたドミニコ会のおもだった神学者たちは、左遷されたり、著作の出版を禁じられたりした。それでも、彼らはくじけることなく、すでにこの活動にたずさわっている人たちにはそのまま仕事をつづけさせるという、ローマ当局にとっては反抗的ともいえる立場をとっていた。そんな状況の中だったから、労働司祭が司式するミサに出席することは、それ自体、宗教的な意味をこえて、教会の方針に対する批判の行為でもあり、ミサに出ようと決めたとき、私は、非合法な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した。

□(216-7)

 こういう「抵抗」や「反抗」には(なぜかよくわかりませんが)共感します。わたしはメインのほうに行ってはいけない人間なのかもしれない。


@研究室

by no828 | 2011-08-22 16:25 | 人+本=体


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