2011年 08月 26日
74(396)京極夏彦『文庫版 邪魅の雫』講談社(講談社文庫)、2009年。 版元 百鬼夜行シリーズ第9弾。このシリーズは一貫して認識論を展開し、それに付随するようにいくつかのテーマが断片的に論じられることがある。今回はそれらを括り、見出しを付けてみた。 ちなみに本文は1,311ページ(!)。 → 認識論 □ 尤も——突き詰めて考えるなら、それは誰でもそうなのだと思う。人は皆、一人ひとり異〔ちが〕った世界を見て、見たものを異った世間として理解している筈である。それでも、誰もが自分の見ているものは他人が見ているものと同じだと思い込んでいる。思い込むのみならず、差違を認めない者、差違が生じることを怖れている者が殆どである。 □(136) □ 「時代に寄り添う必要なんか毛程もないよ。流行に乗っかる必要も全くない。流行ものなんて一年と保たないし、持続する期間もどんどん短くなるだろうからね。ただ、確実なのは君の作品を読むのは現在より先の人間だと云うことだ。君は如何あれ送り手だろう。送り手にとって流行は過去のものだ」 「流行は乗るものじゃなく、作るものってことですかね」 益田は調子良く合いの手を入れた。 違うよ、と中禅寺は速攻で否定する。 「流行は個人が作れるものじゃないさ。作ったように錯覚してる人も居るだろうけどね。流行は世間が作る。厚みの全くない世間を無限の深さを持つ世界に見せかけることが出来る事象こそが流行だ。でもそりゃ勘違いだからすぐに廃れる。流行は、中間にある社会をすっ飛ばして世間を世界に結び着けてしまう呪〔しゅ〕だ。だから流行ものは世間を賑やかすだけで社会を変えることは出来ないのさ」 「世間ってのは何です?」 君と僕だと中禅寺は云った。 「は?」 「君でも、僕でもない、君と僕だ。〔略〕」 □(264-5) □ 「内部世界が変容すれば、外部世界に対する認識も一変するものなんだ。凡ての呪文は対象の歪んだ世界を是正するためだけに貢献する。それ以外の効果はない。ただ、有効な呪文を発するためには、対象が所属する世間を熟知していなければならない。そうでなくては有効な呪は発動出来ない。つまり、裏返せば限定的な効果しかないと云うことだ」 □(274) □ 「謎とは解らないこと、不思議とは誤った解釈。解らないことを解らないと云うのは良いのです。しかし不思議だと云ってしまった途端——それは解釈になってしまう。その人が知らないだけで当たり前の出来ごとであるかもしれないと云うのに、不思議だ不思議だと当たり前のように云うのは、解釈の押し付けに他なりません」 □(1147) → 言葉論 □ 言葉は凡て嘘である。受け取る側次第で如何〔どう〕とでもなるものだ。真理ではあり得ない。発せられたあらゆる言葉は、受け取った者の数だけ別な意味を持つのだ。解釈は——遍く恣意的なのだ。 だから。 言葉は便利だ。 □(224) だから言葉は便利だ——のほうにはわたしは行かないようにしたい。 □ 「思想が社会を創ると云う幻想は慥かにあるのだけれど、実際は逆だ。社会が思想を作り思想が言葉を作るんだ。理想を現実化しようと努力することは尊いことだが、個人の力で社会は変わりはしない」 変わらないのだろうか。 「結局、不可抗力的になるようになるだけだと僕は思う。言葉と云うのはどうしたって個人的なものなんだ。情報操作で世間を動かすくらいは出来るだろうけれど、社会を変えることは——矢張り難しいだろうな」 □(272) □ 「言葉と云うのは全部嘘だ。だから言葉で綴られた物語も全部嘘だ。記録も記憶も、現実じゃない。正邪や善悪と云った概念は、この嘘の世界にあるものなんだ」 □(1294) → テクスト論/読書論/書評論 □ 「だから、それは関係ないだろうよ益田君。大体、作品と作者は無関係だと云うのが、この京極堂の持論なんだよ。殺人犯が書いたものでも良いものは良いし、偉い学者が書いたものだって駄目なものは駄目な訳で、作者の肩書き権威や人品骨柄と作品の価値は一切関係がない、作品と作者は乖離しているべきだ、作品の価値を定めるには、寧ろ読者との関係性こそをだね、その」 「僕の受け売りをするにしても、もう少し整理して喋り賜えよ関口君——」 □(240) □ 「たった今、書評はみんな正しいって云ったじゃないですか中禅寺さん」 「正しいよ。テクストをどう読み取ろうと、どんな感想を抱こうと、それを何処でどんな形で発表しようと、そりゃ読んだ者の勝手なのであって、書き手がどうこう口を出せる類いのものじゃないよ。ま、書評家なんて一読者に過ぎないのだ。小説は読まれるために書かれるものだし、読んだ者の解釈は凡て正解だ。小説の場合、誤読と云うものはないからね」 「作者の意図と違っててもですか?」 「作者の意図なんて、そんなものどうやったら判ると云うんだね益田君」 「判りませんかね?」 「文章から作者の意図が知れるなら古文書の解釈だってもっと楽になるよ。何が書いてあるのか、何故書かれたのか、どんな風に書かれたのか、判らないからこそあれこれ詮索が必要になるんだ。簡単に読み取れるなら歴史家も国文学者も頭を捻る必要などないだろう。どんな書き振りの文だって、書き手の意図なんか読み手には全く判らんのだよ」 そう云うものだろうか。そう云われればそんな気もする。 「凡ては読む者の推測に過ぎない。その推測こそが読書を娯楽として成り立たせているのだ。古文書や約款なんかが恐ろしく諄〔くど〕い書き方をするのは、文意の解釈に幅があってはいけないからだ。それでも穴は幾らでもあるんだよ。一方で小説は幅があってなんぼだからね」 作者の意図など十割通じないよと中禅寺は強い口調で云った。 □(248) □ テクストの前に万人は平等だと中禅寺は益田が尋き終わる前に答えた。 「読書に上手いも下手もないよ。読む意志を持って読んだなら、読んだ者は必ず感想を持つだろう。その感想の価値は皆等しく尊いものなのだ。書評家だから読むのが巧みだとか、評論家だから読み方が間違っていないとか、そんなことは絶対にない」 □(253) □ 「〔略〕書評は、先行するテクストを材料にした二次的な読み物だ。それだけなんだがね」 〔略〕 「〔略〕あのね、書評なんてものは概ね四種類しかないのだ」 そこで中禅寺は何かを持つような仕種をした。 「ここに林檎があると思い賜え。で、林檎がありますと云う。これが一つ目。で、兎に角この林檎は美味しいですよ食べてみましょうと云う。これが二つ目。それから、実際自分で食べてみたけれど少し硬くて酸っぱかったから好みじゃないとか云う。これが三つ目。最後は、この林檎はこうして作られたと思うとか、この林檎の成分はこうだと思うとか、この林檎の所為で蜜柑が不味くなったとか、そう云う空想を巡らせて愉快なことを云う」 「空想?」 「空想さ。まあ——最初のは粗筋を書いたりするだけの紹介記事だね。こりゃ評でも何でもないから、読み書きが出来れば犬にでも書ける」 「また犬ですか」 「犬だ。次のは、まあ宣伝だよ。広告。〔略〕これは読み書きが出来て、少しだけ社会性があれば、矢張り犬にでも書ける」 「犬は書きませんって。〔略〕」〔略〕 「次のはね、まあ自分で読んで感想を書く訳だ。褒める場合も貶す場合もあるが、印象批判でなくたって、要は好き嫌いに基づく個人的見解だからね、優劣是非を決められるようなものじゃない。これもまあ——犬が駄目なら、漢字さえ読めれば幼児にも書けるな」 「ですから」 「いや、決して馬鹿にしている訳ではないのだ。何度も云うが感想は普く尊いし、それを開陳すること自体はいけないことじゃないからね。犬でも幼児でも感じたことを開陳出来るなら、それはそれでいいのだよ。ただ商売にしようとするなら感想文じゃいかんのだ。読み物として成立していなくてはいけない。開陳の仕方が堂に入っていれば優れた読み物にもなるだろう。まあ——さっき云った自称読書の達人と云う族〔やから〕はその辺で勘違いをしている猿頭どものことなんだが——ただ猿でも何でも、賢ぶるくらいの芸は持っている訳だよ。勿論、弁えた人だって沢山居る訳だしね。姿勢や内容は兎も角、まあ書評をするくらいの人物であれば文章もさぞや上手な筈だからね、犬や幼児とは歴然と差が付くだろう」 〔略〕 「まあ——幼児が書いたものも混じっているかもしれないがな。で、最後のものは流石に犬や幼児には書けないのだ。文章力以外にも豊かな想像力と構成力が必要になるからね。なんせ、林檎の栽培の仕方やら、林檎の植物としての位置付けなんかをだね、空想してでっち上げなくてはいけない」 「ですから空想って何ですか」 「空想だろうに。そんなこと判る訳がないんだからね。まあ——林檎の場合は或る程度判るかもしらんが、小説なんかの場合は絶対に判らない」 □(255-7) → 歴史論 □ 「世界を遺すためには、世界は語られなくてはなりません。語られ、そして記されることなくして歴史は生まれない。語ることで世界は嘘になる。嘘になった世界こそが歴史なのです」 □(1115) □ 「稗史〔はいし〕?」 「正史ではない歴史、と云うことです」 「正史ではない、と云うのは?」 「公式な記録が残っていない歴史——と云う意味です。歴史は、記録されなければ生まれません」 □(1142) サバルタン。 □ 「さて——今申し上げたように、民俗学と云う学問は、人人の記憶を頼りにして組み上げられています。その村で行われている行事、その地方で為されている風習、その土地に伝えられている口承伝承——そうしたものを聞き集め見廻って、何故そうするのか、どうしてそうなったのかを想像し検証して行く、民俗学とはそうした学問です。私達日本人が何故今のような暮らし方、考え方をするようになったのか——現在の様様なあり方から過去を照射することでそれを探るのが、民俗学だと云えるでしょう。これは、今に受け継がれている記憶を辿る学問なのです」 一方——と中禅寺は青木を見た。 「歴史学と云うのは、これも先程云った通り記録が基本になる。記録偏重——否、テクストクリティークに徹して掛からないと、歴史学的な検証をすることは不可能です。筋道は兎も角、その部分だけは徹底していないと学が立たない。記されていない部分を想像で埋めてしまったのでは、歯止めがなくなってしまうからです。学問に想像力は不可欠ですが、証明する証拠がない限りはどんなに魅力的な想像も構築性の高い論考もただの仮説に過ぎない。逆に、証拠があるならば、どんなに荒唐無稽な結論であっても整合性に欠ける説であっても認めなくてはなりません。こればかりは厳密でなくてはならない。それが歴史学です。現在の社会の成り立ちを考える、古の日本を読み直す、様様な場面で色色な意味で、歴史学と民俗学は大変近しい学問であるように思えますが、その手法は百八十度違っていると云って良いでしょう」 □(1152-3) 甘木先生と甘木先生の違いはここに。教育史学の甘木先生は“語りは証拠ではない、証拠になるのは文字になっているものだけだ”という立場なのに対し、社会学の甘木先生は“語りも証拠になりうる”という立場。 → その他 □ 現状を分析理解出来ぬ者とは、即ち未来予測が出来ぬ者と云うことである。 だから大鷹には予感と予測の区別がない。後悔はするが反省は出来ない。来し方の経験を行く末に活かすことが全く出来ない。 大鷹にとって学習と云うのは単なる情報量の増大でしかない。学べば学ぶだけ、生きれば生きるだけ情報は増えるが、人として成長はしない。増大した情報は持て余されるだけで何の役にも立たない。 □(181) □ 「考えるなとは云わんよ。考えた方が良いに決まっちょる。いいや、寧ろ考えた方が好いのだ。考えるから悩むし迷うのだろ。だが、信じ込むのは危険なのだ。仕事だから決断は必要だ。だが己が間違ってないとどうして断言出来るか。思い込みはいかん。先ず目の前のものを見ろ。正義なんてものは——見えねえだろう」 □(378) □ 「そう。それがあったから凡ては起きた——そう考えるしかない。岩盤を砕くために発破をかけました、と云う事件じゃないんだよ。ダイナマイトが手許にあるから破裂させてみました、と云う事件なんだこれは。〔略〕」 □(753.傍点省略) □ 「親の身分だの地位だの家の場所だの大きさだの職業だの役職だのが、一体何の証しになるんだ? そんなものは酒のつまみにもならんぞ。それじゃあ尋くがな関君。君は親が教員で家が中野の借家で職業が売れない物書きだから、そうやって下向いて背中丸めて怯えているのか? だから身の証しが立たんと云うのかね?」 「いや、そうじゃないが」 そう——なのだろう。きっと。 関口は下を向いた。 くだらないねと榎木津は云った。 □(1011) □ 愛情とは他者に与えるものであり、また一切の見返りを求めないものだ。これだけ愛してやったのだから、このくらい愛を返せなどと云う考えは、根本的に間違っている。愛情は常に一方通行なのだ。そして一切の強要は出来ないものだ。そして無上の愛とは、対象を信頼することである。 信頼とは文字通り信じ頼ることだ。 目に見えずとも耳に聞こえずとも、相手の愛情を固く信じることである。 □(220) この意味において“教育は愛だ”と言うのならば、わかる。とてもよくわかる。わたしもこの意味において“教育は愛だ”と言いたい。 @研究室
by no828
| 2011-08-26 18:13
| 人+本=体
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自省のために。他者の言葉に出会うから自分の言葉を生み出せる。他者の言葉に浸かりすぎて自分の言葉が絞り出せなくなることもある。自分の言葉と向き合うからその言葉は磨かれる。よろしくお願いします。 by no828 カレンダー
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