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思索の森と空の群青

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2011年 10月 12日

想像力、それこそがぼくらの戦場です——村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

想像力、それこそがぼくらの戦場です——村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』_c0131823_14174436.jpg祝 101(423)村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』新潮社(新潮文庫)、2002年。

※ 初出は雑誌『新潮』に掲載された連作「地震のあとで」。単行本は2000年に同社より刊行。
※※ 左掲表紙デザインとわたしの読んだもののそれとは異なるが、左のそれのほうが本の内容を表現しているように思われた。 


版元 → 
表題作は映画化されていた → 


 短編集。1995年1月の阪神大震災、その後の人びと。個人的には、「かえるくん、東京を救う」がおもしろかった。「かえるくん」と「片桐」との会話には、村上春樹の文学における構えが投射されているように思われた。“村上春樹はそういうことを思って書いているのかもしれない”ということである。もちろん、それは読み込みすぎ、読み取りすぎなのかもしれないが。

 村上春樹をここで紹介するのははじめてかもしれない。学類の頃、亀氏が『ノルウェイの森』を持っていたのを見て、村上作品を読みはじめた。『海辺のカフカ』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』などなど。印象に残っているのは物語の構造で、すべての作品ではないとは思うが、それは並存並行世界から成っている。同時に複数の位相世界が存在する。これは一体何なのだと思い、しかし結局その「何」は(少なくとも読み手であるわたしのなかでは)明らかにならない。だから、最後にどこかにすとんと落ちないことのもどかしさのようなものが残るけれど、今ではそこにこそ、書き手の付与した意味、あるいは文学の意義を——おそらくはわずかに——見出せるようになった。



「小村さんは、遠くに来たかったんですか?」
「たぶん」
「奥さんがいなくなったから?」
 小村はうなずいた。
でもどれだけ遠くまで行っても、自分自身からは逃げられない」とシマオさんは言った。
 テーブルの上の砂糖壺をぼんやりと眺めていた小村は、顔を上げて女の顔を見た。
「そうだね。君の言うとおりだ。どれだけ行っても、自分自身からは逃げられない。影と同じだ。ずっとついてくる」

□(「UFOが釧路に降りる」26-7)


 三宅さんは考えていた。「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える。順ちゃんが火を見ててひっそりとした気持ちになるとしたら、それは自分の中にあるひっそりとした気持ちがそこに映るからなんや。そういうの、わかるか?」
□(「アイロンのある風景」63-4)


「自分がどんな死に方をするかなんて、考えたこともないよ。そんなこととても考えられないよ。だってどんな生き方をするかもまだぜんぜんわかってないのにさ」
 三宅さんはうなずいた。「それはそうや。でもな、死に方から逆に導かれる生き方というものもある

□(「アイロンのある風景」73)

 ハイデガー。


 小学校を卒業するまで、善也は週に一度は母親といっしょに布教活動に出かけた。母親は教団でいちばん布教の成績がよかった。〔略〕彼女は地味な(しかし身体の線を美しく出した)スーツを着て家々をまわり、相手に布教のパンフレットを渡し、押しつけがましくない態度で信仰を持つことの幸福についてにこやかに語り、何か困ったことや悩み事があったら、是非私たちのところに訪ねてきてくださいねと言った。
私たちは何かを無理に押しつけたりはしません。私たちは差し出すだけです」と彼女は熱い声で、燃えるような目で語った。

□(「神の子どもたちはみな踊る」97)

「押しつける」と「差し出す」との根源的な違いは何か? 実はそんなものはないのかもしれない。両者とも“提示する”が含まれている点で同じである。両者のあいだにあるのは、“提示する”の後段にある、“相手に届ける”という目標を効率よく達成するための方法的・技術的な違いにすぎないのかもしれない。「押しつける」よりも「差し出す」のほうが効率よく目標達成できそうな場合には「差し出す」のであり、逆の場合は「押しつける」という、ただそれだけの違いかもしれない。だから“押しつけているのではない、差し出しているのだ”という言明は、何ら倫理的ではないのかもしれない。

 では、「教育」という営みは、一体どうなるのか。“「教化」ではなく「教育」を”という意識もまた、何ら倫理的ではないのかどうなのか。


「片桐さん、実際に闘う役はぼくが引き受けます。でもぼく一人では闘えません。ここが肝心なところです。ぼくにはあなたの勇気と正義が必要なんです。あなたがぼくのうしろにいて、『かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい』と声をかけてくれることが必要なのです
□(「かえるくん、東京を救う」165)

「私はとても平凡な人間です。いや、平凡以下です。頭ははげかけているし、おなかも出ているし、先月40歳になりました。扁平足で、健康診断では糖尿病の傾向もあると言われました。この前女と寝たのは三カ月も前です。それもプロが相手です。借金の取り立てに関しては部内で少しは認められていますが、だからといって誰にも尊敬はされない。職場でも私生活でも、私のことを好いてくれる人間は一人もいません。口べただし、人見知りするので、友だちを作ることもできません。運動神経はゼロで、音痴で、ちびで、包茎で、近眼です。乱視だって入ってます。ひどい人生です。ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけです。何のために生きているのか、その理由もよくわからない。そんな人間がどうして東京を救わなくてはならないのでしょう?」
「片桐さん」とかえるくんは神妙な声で言った。「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです

□(「かえるくん、東京を救う」170-1)

「それでよかったんですよ、片桐さん。何も覚えていない方がいい。いずれにせよ、すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます。もちろんぼくらは誰もが限りのある存在ですし、結局は破れ去ります。でもアーネスト・ヘミングウェイが看破したように、ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ去り方によって最終的な勝ちを定められるのです。ぼくと片桐さんはなんとか東京の壊滅をくい止めることができました。15万人の人々が死のあぎとから逃れることができました。誰も気づいていませんが、ぼくらはそれを達成したのです」
□(「かえるくん、東京を救う」180)

ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです
「私にはよくわからないな」
「ぼくにもよくわかりません」とかえるくんは目を閉じたまま言った。「ただそのような気がするのです。目に見えるものが本当のものとはかぎりません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます。ぼくの頭はどうやら混濁しています。機関車がやってきます。でもぼくは片桐さんにそのことを理解していただきたいのです」

□(「かえるくん、東京を救う」182.傍点省略)

 わたしはここに村上春樹を見た。

@研究室

by no828 | 2011-10-12 14:26 | 人+本=体


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