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思索の森と空の群青

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2012年 01月 09日

リカーシブ・ファンクションね。外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう——森博嗣『四季 冬』

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6(476)森博嗣『四季 冬 Black Winter』講談社(講談社文庫)、2006年。

※ 2004年に講談社ノベルスとして刊行。

版元 → 


 論文モードのためかどうかはわかりませんが、1時間もかからずに読了。『春』(→ )、『夏』(→ )、『秋』(→ )と続いた四季シリーズの完結です。

 所々、別のシリーズで展開された会話が繰り返されています。この四季シリーズは、S&MやVなど、別のシリーズと交差しているからです。そのため、同じ場面が別の切り取り方で示されることになります。


 ↓ こういう認識は好きです。


「どういうことでもない。抽象できるのは、どんなものも、あるべき位置に接近するだけで、そのものにはけっしてならない。かぎりなく漸近するだけのこと
□(26)

 ↓ これは、もう少し考えたい。


 それらの無秩序に反発して、人は法則性を築こうとするけれど、しかし本来が、そういった法則に従うものなどない。厳密には存在しない。
 では、何故だ?
 何故、ものは無秩序に存在し、
 空間は、それらを許容してここにあるのか。
 どうして、秩序もなく引き合ったり、反発したり、
 影響を与え合うのか。
 存在の疑問が行き着くところといえば、すなわち、
 それは既にあった、という認識のみ。
 それがそこにあることを許すしかない。
 哲学も数学も物理学も、そこから始まり、同じところへ到達するだろう。

□(47)

 ↓ これは四季らしからぬ考え方だと思いましたが、基本的に同意します。ある呑み会で、研究者の書くものは固有名的であるべきかどうか(という言葉を使ったかどうかは定かではないのですが)、という話になったことを思い出しました。「固有名性」というのはその著者の名前がテクストにどれだけ刻印されているか、ということです。その論文なりその本なりを書いたのが誰なのかがわからなくてもよい、むしろわからないようにする、書かれた内容から固有名をできるだけ消す、書かれた内容さえ残ればよい、というのが反固有名派の意見でした。固有名派は、テクストとは書き手自らの名前を刻み込んでこそ、固有名を押し出すべき、という意見でした。ちなみに、反固有名派は社会学者、固有名派は歴史学者でした。わたし自身はどちらなのか、どちらがよいのか、まだよくわかりません。


 幾度か、彼女が書いた文章を読む機会はあったが、そこには、彼女自身の内側は微塵も表れていない。主観を排除した冷徹な観察眼だけで綴られている。残念ながら、そこに亜樹良はいない。したがって、彼女の文章を読む価値を、四季はまったく感じなかった。
□(97)

 ↓ 量子力学のインパクト。


 愛しただろうか?
 愛されただろうか?
 あれは、交換だったのか。
 その確信は得られない。
 検証する方法もない。
 そういったことができる人間はいない。もしかして、科学的な方法で可能になるだろうか。他人の深層心理を観察することができるようになれば、あるいは可能かもしれない。しかし、その観測によって、深層心理は即座に別ものに変貌するだろう。
 結局のところ、物理的な観測とは、単に表面が外へ向けて放射するものを拾う行為に過ぎないのだ。

□(100)

 ↓ 筆者は、自分の子どもを観察し、大人になった今の自分と子どもであった昔の自分とを比較し、こういう認識になったのかなと思いました。


「それは人間の教育と同じです。我々は、長い間、子供は大人よりも劣っていると考えていました。子供には、抽象的な概念を把握する能力がまだ備わっていない。したがって、簡単で具体的なものを持ち出して、子供の教育に当たってきました。しかし、それは完全に子供を見くびった視点だったのです。生まれて、この世界の身近なものの存在、自分の存在、そして、それらの相互関係、さらには、それらを表現する言葉の存在、思考による予測を伝える手段など、子供は最初から、人生最大の難題を解決しなければなりません。これをなんなくクリアしてしまう能力を想像してみて下さい。人間は最初に最も理解力を持ち、知識を蓄え、それらの応用と試行を繰り返すことによって、しだいに制限され、思考力を失うのです。簡単にいえば、最初は誰もが天才、そして、だんだん凡人になる」
□(156)

 ↓ 引用したことと呼応しているかどうか自信はないですが、外側へと向かっていたのに辿り着いたのは内側の中心であった、という思考体験をしたことがあります。それが「生命の定義」かどうかはわかりません。


リカーシブ・ファンクションね。そう、全部、それと同じなの。外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう。だからといって、諦めて、動くことをやめてしまうと、その瞬間に消えてしまうのです。それが生命の定義。本当に、なんて退屈な循環なのでしょう、生きているって」
「退屈ですか?」
「いいえ」四季はにっこりと微笑む。「先生……。私、最近、いろいろな矛盾を受け入れていますのよ。不思議なくらい、これが素敵なのです。宇宙の起源のように、これが綺麗なの」
「よくわかりません」
「そう……、それが、最後の言葉に相応しいわ」
「最後の言葉?」
その言葉こそ、人類の墓標に刻まれるべき一言です。神様、よくわかりませんでした……ってね
「神様、ですか?」
「ええ、だって、人類の墓標なのですから、それをお読みになるのは、神様しかいないわ」

□(208-9)

 ↓ 頭の回転の遅さ、判断力の弱さをこういうふうに認識できることに感動しました。


自分の人生を他人に干渉してもらいたい、それが、愛されたい、という言葉の意味ではありませんか? 犀川先生。自分の意志で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意志ではなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」
〔略〕
「あの、博士……。どうして、僕に会いにこられたのでしょうか?」
「貴方が、あの海の中で、おっしゃったことが気に入ったからよ。水の中では煙草が吸えないって、おっしゃった。私に予測できない発言でした。理由はそれだけです。犀川先生、貴方、頭の回転は遅いけれど、指向性が卓越している。判断力が弱いけれど、客観性は抜群だわ。たぶん、まだ何人かをお持ちなのでしょう? いろいろな犀川先生がいらっしゃるはずよ。貴方の回転の遅さは、貴方の中にいる人格の独立性に起因しているし、判断力の弱さは、その人格の勢力が均衡しているからです。でも、その独立性が優れた客観力を作った。勢力の均衡が指向の方向性に対する鋭敏さを生むのです。貴方は、幾つもの目を持っている。奇跡的に混ざっていない。いえ、本当の貴方を守るために、ほかの貴方が作られたのね

□(246-7)


@研究室

by no828 | 2012-01-09 14:46 | 人+本=体


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