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思索の森と空の群青

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2012年 08月 09日

僕は村上春樹という作家と村上春樹という個人を分けて物事を考える——村上春樹『村上朝日堂 はいほー!』

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村上春樹『村上朝日堂 はいほー!』新潮社(新潮文庫)、1992年。


版元 → 

単行本は1989年に文化出版局より刊行。


 エッセイ集。カポーティの短篇「夜の樹」が好きです、と書いてありました(→ )。


 開発の文脈に移植して、しばし考え込みました。
つまりある特定の知識を有しているが故に救済されている人間Aが、その知識を有していないが故に苦しんでいる人間Bにその知識を分け与え、自分のいる位置にまでひっぱりあげてやるわけだ。でもそうすることでAはBに対して、決して「救ってやったんだぞ」というような恩きせがましい感情は持たない。それは無償の好意であり、救済なのだ。AはあくまでBがあるべき状態を提示しただけのことなのである。そしてAはBが自分と同じ地平に身を置けたことを素直に「良かったね」と喜べるのである。(「白子さんと黒子さんはどこに行ったのか?」11)

 自分の父親のことを思いました。こういう感情を抱いたことはあるのでしょうか?
息子に嫉妬することで青春の終わりを知ったってこと?
「そう」
(「青春と呼ばれる心的状況の終わりについて」22)

 レイモンド・チャンドラーの小説を書くコツ。村上春樹は、この態度を肯定的に評価しますし、村上春樹の他の文章を読むかぎり、村上春樹自身がこうしたスタイルを採用しているように見受けられます。
 何はともあれ、僕はそれをチャンドラー方式と呼んでいる。
 まずデスクをきちんと定〔き〕めさない、とチャンドラーは言う。自分が文章を書くのに適したデスクをひとつ定めるのだ。そしてそこに原稿用紙やら〔略〕、万年筆やら資料やらを揃えておく。〔略〕
 そして毎日ある時間を——たとえば二時間なら二時間を——そのデスクの前に座って過ごすわけである。それでその二時間にすらすらと文章が書けたなら、何の問題もない。しかしそううまくはいかないから、まったく何も書けない日だってある。〔略〕
 たとえ一行も書けないにしても、とにかくそのデスクの前に座りなさい、とチャンドラーは言う。とにかくそのデスクの前で、二時間じっとしていなさい、と。
 その間ペンを持ってなんとか文章を書こうと努力したりする必要はない。何もせずにただぼおっとしていればいいのである。そのかわり他のことをしてはいけない。
(「チャンドラー方式」39-40)

 同意。
 ノン・フィクションというのは原理的に現実をフィクショナイズすることであり、フィクションというのは虚構を現実化することなのだ。それをどちらがパワフルかと比べるのは、無意味である。(「日本長期信用銀行のカルチャー・ショック」47)

 これも同意。
〔略〕親と子が何でも話せる家庭というのは本当に楽しい家庭なんだろうか?〔略〕親と子が何でも正直に包み隠すことなく喋って、そうすることによって家庭が初めて健全になるというのは、あまりにも単純で一面的な発想だと思う。(「狭い日本・明るい家庭」116-7)

 似ています。
 自分でもかなりせっかちな性格だと思う。せっかちで、気が短い。
〔略〕
 それから食事が済むとすぐに食器を片付けて洗ってしまう。食事が終わったあと、よごれた食器を前にしてだらだらとしているのが嫌なのだ。だから食べ終わるとほとんど同時に席を立って食器を流しまで持っていき、ついでにさっと洗ってしまう。なにしろ早い。
(「どうして僕は雑誌の連載が苦手なのかということについて」129)

 これはちょっと(まだ?)身体的によくわかりません。なぜならわたしはまだ有名ではないから。
僕は原則的に村上春樹という作家と、村上春樹という個人を完全に二つに分けて物事を考えることにしている。つまり僕にとって作家・村上春樹はひとつの仮説である。仮説は僕のなかにあるが、僕自身ではない。僕はそう考えている。そういう風に考えておけばあまり傷つかないし、頭がおかしくなることもない。(「ON BEING FAMOUS(有名であることについて)」150-1.傍点省略)


@研究室

by no828 | 2012-08-09 17:43 | 人+本=体


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