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思索の森と空の群青

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2012年 10月 01日

啓蒙の光が人間とは無縁な地に降り注いでいるのなら——伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』

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144(604)伊藤計劃・円城塔『屍者の帝国』河出書房新社、2012年。

版元 → 


 伊藤計劃の未完の絶筆を円城塔が書き継ぎました。単行本の、しかも新刊を買ってしまいました。伊藤計劃の本ということが、その2段階の躊躇を取り払いました。

 伊藤計劃の未完絶筆を円城塔が引き継ぐというのは、円城が伊藤になりきって書くということではないようです。伊藤から円城へページが切り替わって、まずは“お、漢字が増えたか”という印象を抱きました。もちろん場面転換もあり、あるいはその変化も必然とさえ言えるのですが、“変わった”という印象はたしかに受けました。しかし、その印象を受けた自分には、“この本は伊藤の続きを円城が伊藤になりきって書く”という身勝手な想定があったことに気付きました。

 生死の異なり。人間とは何か、意思とは何か、言葉とは何か。

「物語とは厄介なものです。ただ物語られるだけでは足りない。適した場所と敵したときに、適した聞き手が必要なのです」(133)

「まあ人間は物語の終わりを求める生き物だ」(329)

「そう、わからないからだ。過程がわからなければ、結果に頼るしかなくなる。これは理屈の問題じゃない。人間の理解の仕方の問題なんだ。人間は物事を物語として理解する。暗号が具体的にどんなに強引な方法で解かれたかは問題じゃない。誰が解いたことにした方が面白いか、書かれているとされる内容がいかに刺激的かが重要なんだ」(266)

あんたは、生命とはなんだと思う
 笑い飛ばされるかと思ったが、振り返ったバーナビーは不思議そうな顔で淡々と告げた。
性交渉によって感染する致死性の病
(319)

「為政者たちはいつまでも愚かなままの民衆に苛立ってきた。啓蒙専制君主の苛立ちを考えたことはあるかね。民衆とは、大局を見ることができず、片言隻句の揚げ足を取り、発言の真意を酌もうともせず、次は我が身に降りかかるはずの悪法を積極的に支持しさえする生き物だ。非常に嘆かわしい光景だと言える。しかしそう考えたところで、啓蒙の光に照らされたと主張する当の為政者たちも、民衆なる存在と何ら変わるところはないと気がつくわけだ。彼らの依拠する智慧の光はその時代に夢見られたかりそめの光にすぎず、後の時代から見れば滑稽だ。人間の知性にはれっきとした限界がある。
 それならば、ということだ。啓蒙の光が人間とは無縁な地に降り注いでいるのなら、積極的な暗愚を選択して何が悪い。これは賢明な君主による愚かな羊の司牧ではない。全能を気取る為政者の絶望から生まれる欲望だ
(382)

「他にどこがあるのかね。癩狂院〔ベドラム〕にいたこともあったがね。あれはあれで快適だ。わたしには人間の狂気は区別ができん。狂人が狂人を閉じ込めている。正気の者が正気の者を閉じ込めている。どちらも同じだ。世界が癩狂院を締め出す。癩狂院が世界を締め出す。どちらも同じだ。区分は価値観の変化に従い移ろい、内と外は視点の問題でしかない(395)

個人の欲望はどれほど暗いものであっても、動機を推測できる分ましだと言える。国家の欲望なんてものに比べれば、ただ人目を引くだけの賑やかしにすぎん(302)

だが俺たちはそこへ暮らしに行くわけじゃない。人は通る。通りすぎることはできる。そこにいる間、土地は現実だ。離れてしまえば想像することも理解することも、思い出すことさえできないただの高地へ戻るのさ。存在は個人の実感じゃない。共有された語りとしてだけ存在する。そのあたりが、書斎に引きこもりっぱなしのMには決してわからないだろうけれどな」(64)


@研究室

by no828 | 2012-10-01 14:52 | 人+本=体


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