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思索の森と空の群青

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2013年 11月 01日

田村はな、まだ何かになるつもりでいるんだ——奥田英朗『東京物語』

田村はな、まだ何かになるつもりでいるんだ——奥田英朗『東京物語』_c0131823_17265262.jpg奥田英朗『東京物語』集英社(集英社文庫)、2004年。77(732)

単行本は2001年に集英社

版元 → 


 上京物語。1979、1980、1981、1985、1989。幻の名古屋オリンピック、ということをはじめて知りました。現実はソウル・オリンピック。

後輩に遠慮はいらん。でも配慮はしろ。誉めること、労ること。いいな」(226)

「往生際が悪いんだよ」三輪がタオルを投げつけてきた。「さっさと三十になれ」
田村はまだ結婚しないの」森下が間延びした声を出す。信じがたいことに、こいつは二児の父だ。「リエちゃんだっけ。いい子じゃない、何をためらってるのよ」
「ほっとけよ」
田村はな、まだ何かになるつもりでいるんだ」三輪が見透かしたようなことを言い、久雄は内心どきりとした。「このまま一介のコピーライターでいるつもりはないんだよ
(349)


 豊崎〔﨑〕由美「解説」
 作家という愛すべき“種族”について考えるたび、必ずヘミングウェイ『キリマンジャロの雪』のとある場面を思い返してしまう。その他のこと、たとえばストーリーなんか見事にうろ覚えと化してしまっているのに。
「だれかほかのひとのことでもお考えになったら?」「なにを言ってるんだ」彼は言った。「そいつは、おれの商売なんだぜ。さんざんやってきたよ」
 まさに。よい小説というものは常に、ほかのひとのことをさんざん考え尽くした作家によってもたらされたというべきでありましょう。
 そういえばアメリカの作家ジョン・ガードナー『オクトーバー・ライト』という作品の中で、小説内小説の登場人物にこんなことを言わせている。「可能な限りありとあらゆる人生を生きてみたい。おれだけじゃなくて、すべての人にそうしてもらいたい。何十万冊の小説の中の人生を、生きれるものなら生きてみたい」と。
 なるほど。自分以外の誰かの人生についてさんざん考え尽くした作家によってもたらされる物語を読むことで、自分以外の誰かの人生を生きる、その仮想体験を愛してやまないのが小説の読者というものでありましょう。
(354-5)

 「で、自分では書かないの? そんなに読んでいるのだから」ということを言われたりもしますが、書き手と読み手とのあいだには圧倒的な懸隔がありましょう。研究論文、研究書の文脈でも、読むことには何の抵抗もありませんが、書くことには躊躇があります。「躊躇」ですから結局は書くわけですが、躊躇はあります。それがわずかばかりのときもあれば、大きなときもあります。書くことへの段差がわたしにはあります。が、書かないといけないな、という思いもありますし、具体的なアイデアを非常勤講師先への移動中の電車内で練ったりもしています。もちろん、小説ではなく論文の話です。加えて、そろそろ単著の端緒も〔← うわ〕掴みたいと思っています。博士論文をもとに、3月までに何とか契機をと。書きはじめないと書くことへの段差は低くならないということは、わかっているのです。書けないのは書かないからなのです。具体的に行きましょう。

@研究室

by no828 | 2013-11-01 17:37 | 人+本=体


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