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思索の森と空の群青

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2014年 04月 04日

「大学っていいとこだな」って思った——立花隆・東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ Ⅱ』

「大学っていいとこだな」って思った——立花隆・東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ Ⅱ』_c0131823_18151815.jpg立花隆・東京大学教養学部立花隆ゼミ『二十歳のころ Ⅱ 1960-2001』ランダムハウス講談社、2008年。133(788)

版元 → 情報なし
単行本情報も不明

 Ⅰ に続く著名人への「二十歳のころ」のインタビュー集。相手は、石弘之、加藤登紀子、赤川次郎、橋爪大二郎、萩尾望都、佐藤学、福島瑞穂、安倍なつみ、などなど。良書。

「バーテンダー」へのインタビューにある、受験という空気しかない教室での生きにくさへの指摘を読み、自分自身の中学校の頃を思い出しました。あの教室にも、きっと生きにくさを感じていた同級生がいたはずなのに、その空気をともに吸いたいけれど思い切りは吸い込めないのだという同級生がいたはずなのに、当時のわたしはそのことをほぼまったく想像することができませんでした。

 日比野克彦の話にある福田繁雄の「教育者」としての姿勢、また、本書の作者である立花隆の「教育者」としての姿勢には、共感するところが多かったです。とくに日比野の話(引用文全体)には感動しました(落涙間近)。高等教育の教員はまずもって研究者、専門家、その分野の先行者であって、学生よりも研究者・専門家として先行していること、その先で自らが開拓した世界・自らが付加した世界を見せること、そういったことが“教育技術”よりも重要ではないかと思います。

 『 Ⅰ 』(→ )のときにも書きましたが、このシリーズ2冊を——絶版のようだから古本でしか入手できなさそうだけれどもそれでも——大学2年生100人を対象にした講義でも紹介しました。ひとりでも手に取ってくれた学生がいればうれしいです。やはり紹介してよかったというふうにいまも思います。


 やっぱりね、友達できなかったね。法科系〔=東大文Ⅰ〕だったせいもあるかな。一年のときからもう司法試験がどうだとか、なんとか省に入るには優がいくついるとか、そういう話が耳に入ってきた。そういうことを考えてるクラスメートとおれっていったら、やっぱり開きがあった。
 高校〔=東京教育大学付属駒場高等学校〕はもちろん受験校だったけど、高校の方がむしろプライドを持って、そういう話はしなかったね。それは無言のうちの約束ごとというか、われわれは偉そうに天下国家を論じたりすることはあっても、成績だとか試験に受かる方法だとか、卑近な話をしないんだっていう。昔の一高生もそうだったんじゃないかな。おれは大学入ったら、むしろそういう人が周りにいっぱいいると思ってたんだけど、おれたちのころから学生が大きく変質したんだろうね。何先生の試験は優が取りやすいとか、おれらのころはもうそういう話をしてた。
 きれいごとで生きてる奴が少なかったのかな。二十歳ごろなんてさ、いくらきれいごと並べてもいいわけじゃない。「金なんか汚いよ」って言ってもいい。
おれらぐらいの年になると、もう絶対言っちゃいけないんだけどさ。せっかくそういう時期にいるのに、なんか変に悟ったような、違うな、過剰に現実的な、そういう奴が多かった。
(野田秀樹.420-1)

 大学は、同じ目的を持っているヤツらが集まっている所。岐阜にいた頃は、絵を描いていても、不安になってしょうがなかった。「本当に絵を描いてていいのか」って。普通の高校に行っていたから、みんな理系だ、文系だ、やれあっちだ、こっちだとやってるわけでしょ。学年で僕独りだけ絵を描いてた。「俺は美大に行く」って。それですごく、「俺だけ」って感じになっちゃうの。
 でも東京に行ったら、俺みたいなのがいっぱいいた。「わー、同じ目的を持ったヤツらがこんなにいっぱいいるって、なんて心強いことだろう。大学っていいとこだな」って思った。そんな場だったね、大学って。
 ちょうどその頃、福田繁雄という方が大学におられたの。彼は、いろんな社会で仕事をして来た人で、(大学の)外からいろんな情報を学校の中に持って来てくれた。「今、資生堂でこんな仕事をしてるんだ」とか、〔略〕そういう仕事を実際に見せてくれたのね。他の教授は、「ここの色は○○だ」とか、「ここの形は○○だ」とか言うけれども、その先生の作品は見たことがない。〔略〕でも、福田先生は、生徒の作品にはいちいち文句を付けなかったけれど、自分の作品をどんどん見せてくれた。それがすごく刺激的で、それがあったからこそ、今の僕らがいると思う。
(日比野克彦.477-8)

 前々からノンフィクションには疑問を持っていた。ノンフィクションとはいっても障害者や敗れたボクサーや戦争や病気を食い物にしているだけじゃないのか。なんでみんな小説を書こうとしないのだろう。ものを書く仕事をやってきて、その思いはますます強くなった。(永沢光雄.489)

 自分の中にはオウムなんかが潜む余地は絶対ない、って思っちゃうのは危ない。敢えて言ってしまえば、自分の中のオウム性を見つけて、見つめることが重要なんじゃないか。こういう、オウム的なことが無反省に排除されていく雰囲気に唯一対抗できるのは、自分自身の中にあるものを素直に見ることだけです。そうできなくなった人は、恐怖のために自分に蓋をしちゃうんです。
 例えば、自分の中に暴力性があったとしますよね。それにむりやり蓋をして人格者として振舞っていると、多くはある程度年齢を経たときに制御できなくなってしまうんです。
 それは、自分の中を見つめ、自分にある要素のコントロールの仕方を学んでいなかったから。
(高橋英利.549-50)

 さて、進学の時期が来る。「本当は高校なんてどうでもよかったんですよ。けどね、クラスの連中がみな高校受験の話題じゃないですか」。中学三年。高校受験を目標にクラスというコミュニティは統一される。村藤も、その一員でいたかったのだ。なぜなら、家庭がなくなった村藤にとって学校からもはじかれて生きていくには、まだ若すぎた。この中学三年のころには、何となくロックギタリストになることを夢見ていたという。高校受験前後に母親と父親は正式に離婚する。「母ちゃんは、オレたちをギャンブルで借金を作って家をメチャクチャにした親父の子供にした。あんなオヤジの元じゃどうしようもないこと知ってて、おふくろはオレたちを引き取らなかったんだな、これが」。それでも村藤は公立の工業高校に合格する。誰も喜んでくれない高校合格。(バーテンダー.593)

 このゼミは一応私が主宰者になっているが、私は二年間ただ自分がしゃべりたいことをしゃべりまくってきただけで、いわゆる教育的指導はほとんどやっていない。生来そういうことが苦手で気恥ずかしくてできないということもあるが、私は基本的に高等教育機関におけるいい教師というのは、初等中等教育におけるいい教師(手取り足取り型)とちがって、刺激役(stimulator)であればいいと思っている。いい刺激役であるためには、口頭の刺激(けしかけを含む)も大切だが、あとは実践を見せることと、本人が実験的実践の第一歩を踏みだすためのきっかけを与えてやることだと思う。(立花隆「あとがき」641)


@研究室

by no828 | 2014-04-04 18:36 | 人+本=体


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