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思索の森と空の群青

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2014年 04月 25日

私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それは——内澤旬子『身体のいいなり』

私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それは——内澤旬子『身体のいいなり』_c0131823_184148.jpg内澤旬子『身体のいいなり』朝日新聞出版(朝日文庫)、2013年。139(794)


版元 → 
単行本は2010年に同出版


 帯文は「38歳、フリーランス。貧乏のどん底で乳癌発覚。しかしそれは新しい世界への入口だった……」。手に取ったのは、著者を『センセイの書斎』(→ |文庫版 版元 → )を読んで知っていたから、でもありますが、今回はそれよりもむしろ、人間にとっての「肉体」に関心があるから、です。わたしにとっての「肉体」(→   )。

 良書です。タイトルも好きです。カバーの絵も好きです。


「ウチザワ、癌はお金かかるよ。保険に入ってないなら三百万は見ておいたほうがいいよ」(73)

 ほとんどの検査に共通するのであるが、身体をモノ扱いされるのもきつかった。決められた時間内に何人もの患者をさばいていけば、そのような態度になるのは至極当然であるのだが、はじめのころは、他人の前で裸になるのだけで緊張するのだから、それをあちこち触られたり、へんな器具を押しつけられたり、裸同然で待たされたりしながら、疼痛や不快感に耐えると、もうくたくたになってしまうのだ。〔略〕
 ただし恐ろしいもので、私のようなヘタレでも、しばらくモノ扱いされていると、結構慣れてしまう。気持ちのいいものではないにせよ、ある程度予想がついてくると、ピリピリせずに、淡々と受け入れることができるようになる。終わった後にぐったりすることも減ってくる。
 それはつまり、ちょっとオーバーなのだが、自分の身体が唯一無二の特別な存在なのではなく、他の大勢の人間とおなじ炭素だの水素だのの、構成要素で組成されたモノにすぎないということに気付かされ、ある程度受け入れられたということなのかもしれない
 普段忘れがちなことだ。
(56-7)

 菜食主義をすべて批判する気はまったくない。私とて体調が悪いときは菜食にする。玄米と豆ご飯と納豆も大好きだ。ただ、菜食主義の中でも肉食を殺生とつなげて否定する考え方にはなじめない。人間は何の生命も犠牲にせずに生きることはできないのだから、傲慢だとすら思う。ついでに言えば、ヒンドゥー文化と菜食主義の根底とは切っても切れない関係にある、カースト制度もどうしても肯定する気になれない。(111)

 自分の家がつらいとは、どうしたものか。
 自分の家だけでなく、薄暗く狭く湿った空間全般が苦手になり近づけなくなった。これまではどんなに暗く汚く狭いところでも大丈夫で、本がたくさん積みあがっていてもいっこうに気にならなかったのに、朝起きた途端に床にもたもた積んであるのをザバーッと全部一気に捨てたくてたまらなくなる。
 聴覚異常やのぼせからだけでなく、気持ちの問題も大きかったのかもしれない。癌になってみて人生のあとさきを考えなくて済むようになった分、「いつか読む、書く」ために積んである本というものがまったく無意味でくだらないゴミにしか見えなくなってしまったのだ。恐ろしい。
(119)

 主治医の先生に恐る恐る相談すると、そうしなさいと、あっさりカルテを出してくださった。ありがたい。これをもってさあどこに行くか。ああ面倒くさいと思いつつ、ネットで調べてみて、二つの病院に的を絞った。しかしすごいのは価格である。セカンドオピニオンには保険が適用されないのだ。病院によって異なるが、ある病院では三十分までで三万千五百円、あと三十分延長ごとに一万五百円追加となる。うううう。さいですか。
 まあしかたがない。日ごろ主治医の先生にはものすごく長々と丁寧に説明していただいても薬の処方も検査もないと、その日の診療代が五百円以下というときもあり、これはいくらなんでも安すぎると思っていたのである。私は貧乏人だが、これでもなんでも安けりゃいいとは思っちゃいないのだ。
 薬よりもなによりもきちんと納得、安心できるまでの説明が患者には必要なのに、それが医師の労働対価として反映されていないのはあまりにも悲しい。医師のだれもが患者に対して納得のいく説明をするためにも、もうすこしお金をとってほしいとは思う。しかしセカンドオピニオンの値段は、ちときつい。
(145)

 切ってもらった医師に最後まで診てほしいというのは、家を建ててもらった大工さんにずっとメンテナンスをしてもらいたいと願うのと同じくらい贅沢な願いになりつつあるのかもしれない。診ることと看ることの境界を、私たちはどうしても混同しがちだ。(208)

 四度の手術で私が得たこと、それは人間は所詮肉の語りであるという感覚だろうか。何度も何度も人前で裸にされて、血や尿を絞り出しては数値を測って判断され、切り刻まれ、自分に巣喰う致死性の悪性腫瘍という小さな才貌を検分されるうち、自分を自分たらしめている特別な何かへのこだわりが薄れてしまった。人間なんてそんなごたいそうなものではない。仏教の僧侶が言うとおり、口から食物を入れて肛門から出す、糞袋にすぎない。
 私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人間には、それはちょうど良い体験だったのかもしれない。独立した存在であるように思っていた精神も、所詮脳という身体機能の一部であって、身体の物理的な影響を逃れることはできない。
私はそれをあまりにも無視して生きてきたんじゃないだろうか。
 ただし、意志だけで生きてきたこれまでの人生は、身体はつらかったけれども、たのしいこともたくさんあった。身体(と生活)を極限まで無視した分、得がたくおもしろいことを見られたし、学べたという自負はある。でも癌をつくるまで(?)身体を本気で怒らせることになったのはまずかった。癌を通じて、私の意志は一度身体に降参し、身体のいいなりになるしかなかったのだ。
 だから、これらの体験は私にとっては病との闘いというよりは、意志と身体との闘いであったと思う。これからは双方並び立つうまいバランスをとるように再構築していかねばならない。
(219-20)


@研究室

by no828 | 2014-04-25 18:52 | 人+本=体


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