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思索の森と空の群青

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2014年 06月 21日

同じ作家でも、作品ごとに語り手としての人格は異なる——筒井康隆『朝のガスパール』

同じ作家でも、作品ごとに語り手としての人格は異なる——筒井康隆『朝のガスパール』_c0131823_15242843.jpg筒井康隆『朝のガスパール』新潮社(新潮文庫)、1995年。158(813)


版元(ただし電子版) → 
単行本は1992年に朝日新聞社


 本書は新聞連載が初出で、連載中に読者からのコメントなども取り入れながら小説を作っていくという体裁になっています。しかし、どこまでが本当にあったコメントの反映で、どこからが筒井の創作なのか、その境界線はきわめて見出しにくいです。現実と虚構の境界線です。物語——作中作と呼ぶべきか——の進行する事実水準——にも実は複数あるのですがとりあえず——と、その物語に言及する観察水準とが相まって『朝のガスパール』は進行します。しかし、その観察水準が事実かどうかはわかりません。つまり、この事実と観察の2つの水準のさらに上に、この物語を執筆する筒井本人が想定されます。がしかし、この筒井本人は唯一の筒井康隆か、という問題も提起されています。この2つというか3つの水準の整合的な錯綜——という表現は論理的な矛盾か——が『朝のガスパール』です。小説の小説の小説。 

 ややこしい。

 2つ目の引用に印字されていた言葉遣いから、ハイデガーを想起しました。『存在と時間』をちょうど読んでいるところです。「世界内存在」とか。


「これはジェラール・ジュネットのいう『語りの水準』の問題だ。つまり『まぼろしの遊撃隊』や貴野原たちの世界のことを語っている語り手はおれだ。では、こうして会話しているおれや君を語っている語り手は誰だい」
「筒井康隆でしょう」
「その通り。しかしながら、その語り手が即ち現実の筒井康隆自身かというと、そうじゃないんだなこれが。あくまでこの『朝のガスパール』だけを語っている筒井康隆に過ぎない。たとえばの話、『吾輩は猫である』の語り手としての夏目漱石と『明暗』の語り手としての夏目漱石はあきらかに違う」
「そりゃだって『吾輩は猫』は漱石の処女作だし、『明暗』は遺作だもの。十年もの開きがあります」
「じゃ『坊っちゃん』と『虞美人草』でもいいよ。一年しか違わないけど、語り手はあきらかに別の人格だ。ええい。ややこしいことを言うな。おれは同じ作家でも、作品ごとに語り手としての人格は異なるということを言いたかっただけだ
(81-2)

「われわれを見下げてる者は、いったい何者なの」笑いながら彼女は続けた。「ご心配なく。石部智子ですから」
 櫟沢は唸った。「時間と空間を越えたのか」
 智子がうなずく。手にオレンジ・ジュースのグラスを持っていた。「虚構の壁が破れたんです。それを破ったのは櫟沢さんでしょう。それがお望みだったんでしょう」
最終目標だった」感に堪えぬように櫟沢は吐息をつく。「そのための努力だった。虚構の側から現実への侵犯は可能か。ぼくはずっと、そればかりを考えていた
「現実を模写してばかりだったんですものね」智子は櫟沢の主張を心得ているようだった。「今までの虚構は」
「もちろん、ここも虚構の中だが」櫟沢はにやりとする。「さらなる現実をめざして、君と一緒にもう少しじたばたしてみるか。せっかく君が来てくれたんだから」
 智子は立ちあがった。「じゃあ、お連れするところがあります。そこには、わたしみたいに最初から虚構の存在だった者だけじゃなく、もともと現実に存在していながら、虚構内存在にされた人たちもいますから」階段をおりてきた。
 瀬の高い智子を見て、櫟沢はたじろぐ。「それはおっかないな。ぼくは今まで物語世界外の存在にろくな登場のさせかたをしていないからね」
(307)


@研究室

by no828 | 2014-06-21 15:31 | 人+本=体


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