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思索の森と空の群青

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2014年 10月 13日

そう言われると、次の言葉が出てこなかった——角岡伸彦『被差別部落の青春』

そう言われると、次の言葉が出てこなかった——角岡伸彦『被差別部落の青春』_c0131823_1732038.jpg角岡伸彦『被差別部落の青春』講談社(講談社文庫)、2003年。22(845)


版元 → 
単行本は1999年に同社
著者の「角岡」は「かどおか」


 題名のとおり、被差別部落のルポルタージュ。解放教育、同和教育、人権教育については講義で取り上げることもあります。その勉強用の読書でもありました。教えなければ差別はなくならない、という意見と、教えなければ差別はなくなっていく(教えると差別をむしろ助長する)、という意見とに一般的には分けられます。政治的な事情はさておくとして、いずれも差別はよくないという基底は共有しながらも、その方法をめぐって対立点があります。あくまでも教育という立場、さらには教育学という構えにこだわったとき、そこから論理的にはどちらの立場が支持されるのかを考えますが、論理的には答えが出ないようにも感じています。


「ここはね、昭和四十年代に解放されたんですよ……」
 解放された? しかも二十年以上も前に? よくよく話を聞いてみるとこういうことだった。多くの部落、とりわけ都市にある部落では、住環境、就労、教育などにおいて部落外と著しい差があり、スラム的な様相を呈していた。部落の人々は生活改善の要求運動を起こし、国はその声に応え、同和対策事業を開始する。行政は事業を行う前に、どこが部落(行政では同和地区という)であるかを指定しなければならない。ところが私が訪れたこの部落は、「行政の援助は一切いらない。そのかわり同和地区指定をしないでほしい」と行政に要望したというのだ。福住職のいう「解放された」という言葉は、同和地区指定を固辞したことを意味していた。同和地区に定められた部落では、老朽住宅は団地型の改良住宅などに建て替えられることが多かったが、ここではそのような事業は行われてこなかった。
(11)

「だいたい教師は、部落の子は頑張れ、在日(韓国・朝鮮人)やから頑張れとか、思い入れが大きいいうかね。自分の意志で言うのはええけど、教師に言われて部落民宣言とか本名宣言とか、教師はそのときええかっこできるけど、本人は一生、それ背負て生きていかなあかんねんから。こんなん言うたらおかしいけど、わしは差別してきた人間やから、世の中の差別いうのはよう知っとるわけやね。そやからせんでええことはせんでええと。部落出身やと言うても得ないねんから。わしの現実論からしたら、損か得かで割り切った方がものすごいわかりやすい」(36)

 なぜいまどき、そんなことを気にするんだろう。相手が部落出身者であろうがそんなことは関係ないではないか。読者の多くはそう考えていることだろう。私だってそう思う。だが、手塩にかけて育ててくれた親や、小さなころからかわいがってくれたおじいちゃんやおばあちゃんが、部落出身者との結婚に対して否定的だったら……。身近な人に、部落出身者はやめといた方がいいよと言われたら……。場合によっては、そんなことは関係ない、と思っていた自分がもろくも崩れ去っていくこともある。(58)

「うちのおやじは平気でゼッケンつけて外歩いたりするわけよ。お母さんは、部落をあからさまにするのがいややねん。あたしは別の意味でダサイとか思うねん。弟はそういうの絶対ダメ。そういうのでも全然違ってくるから」
 以前、父親は私に「いつまで経ってもムラの中では入り人〔いりびと〕は入り人やねん」と語ったことがあった。入り人とは、部落に入って来た部落外の人という意味である。父親は部落に住んで三十年近くになるが、いまだに「よそ者」として見られるのを感じるという。意外にもきわめて身近な家庭という場で、そう感じている人間がいたわけである。
父親は部落問題でしんどなったらフェイドアウト(次第に消えること)できるもん。あたしはひとつしか道はないやん。お父さんはふたつ道があるんやって、あたしちっちゃいときからずっと思っててん。そやし好きなことできんねって。あたしはどこまでも母親の味方やねん
 家族の中でもお父さんは別――。裏返していえば、逃げることができない立場を、文輝は自覚している。
(38)

 結婚までの長い道のりを振り返り、道子は途中から自分が“選択される側”であることを痛感していた。
「博さんにとっては、親と私のどっちを取るかという状況やったけど、私を取って親を犠牲にするんも酷やんか。どっち取っても私は責められへん。だから『どっちを選ぶかは、あんた次第やで』って言うてた」
(67)

 でもな、奈良市内で部落の子と朝鮮の子と仲が悪かってん。お互いケンカするねんけど、あたし、どっちの味方にもなれないとこがあんねん。友達になりたいのに、なんでケンカせんならんのかな、と思てた。高校に朝高狩りで有名な先輩がおって、バリッバリッのムラの子やねん。あたし半分ムラの子やんか。敵にしてるのが朝高の子やんか。つらいなぁ思た。兄貴の友達にも、あたしの友達にも朝高の子もいてたから。(106)

「その人とたまに同和の話が出るんや。『お前らは、わしらの仕事を食い物にして』とわたしが言うたら相手は『お前らこそ、同和や同和やいうて道や施設つくったりしとるがな。逆差別やで』と言い返してきよる。そういう話を得意先でできるようになってきた。なんせこれまでそういう話ができる状態とちゃうかった。差別はあかんと言われて頭から押さえつけられて、同和問題についてはあたらずさわらず、というのがこれまでやったからな」(169)

「部落であるかないかは、他人が決めることや」
 差別する側が部落民を規定する、というのが一郎の考え方である。
(202)

 兵庫県のある公立高校が九七年(平成九年)に全校生徒九四九人を対象に行った調査によると、部落差別の存在を誰から聞いたか、という質問に対して「先生」と答えた者が八三・三パーセントと最も多く、「親」(五・七パーセント)、「友達」(二・八パーセント)を大きく引き離している。また大阪府内の府立高校一年生八七〇人を対象にしたアンケート調査(九八年)でも、部落や同和地区があることを誰から知ったかという質問に対して、「先生」と答えた者が七四・七パーセントを占めている。先生の次には「父母や家族」(一〇・一パーセント)、「友人」(三・一パーセント)と続き、兵庫県の高校と同じ順序になっている。
 これらの統計を見る限り、部落問題を学ぶ同和教育が行われている地域では、部落や部落差別の存在を学校教育の中で知ることが圧倒的に多いといえる。最初に部落問題と出会う場が学校であるという事実は、ある意味で驚くべきことだが、学校教育が部落問題に大きくかかわっていることはまぎれもない事実である。
 部落問題の解決を目的とする学校・社会教育を同和教育という。同和教育は一九五〇年代に部落の子供たちの長欠・不就学が問題化されたことから取り組みが始まった。六〇年代には学力・進路保障、非行問題の解決が加わり、八〇年代には、部落問題の解決には正しい知識を広げることも必要だとして、部落外の子供や大人たちにも対象は広がった。
部落外への取り組みは、差別する側をこそ変える必要があるという声が高まったことに加えて、同和対策事業による部落外のねたみ意識が目立つようになった、などの背景があった。〔略〕
差別は自然にはなくなりません。これは断言します。〔略〕寝た子を起こさずにそうっとしておけば部落差別はなくなるんだという意見の方がいらっしゃいますが、そんな甘いもんだったら差別はなくなってます。〔略〕」〔略〕
部落差別は誰から教えられるかというと親、きょうだい、おじいちゃん、おばあちゃん、いわゆる身内じゃないですか。親が子供に教えていくとずっと残っていく。それに対抗するとすれば学校の教育しかない。大人になってからじゃ遅いですよ。幼稚園ぐらいでもいいからきちっとした同和教育を、できれば部落出身の先生が教えていかないと差別はなくならんのじゃないかと思いますね」
(230-2)

 田中が初めて自分が部落出身であることを知ったのは、小学校の高学年のときだった。自分が住んでいる地域を指して友達が「ガラが悪い」「あそこは違う」「悪い人間ばっかり」と噂していた。なんでそんなこと言われるんやろ? 不思議に思い、母親に尋ねた。ここは部落と呼ばれる地域で、悲しいけど私らは就きたい仕事にも就けない、部落外の人とも結婚できないんや、と母親は言った。
「そんなんやったら私を産んでくれなくてもよかったのに……」
 口をついて出た言葉に、母親の目から涙がこぼれ落ちた。
(236-7)

 宮本がクラブ活動〔部落問題研究会〕をする上で悩んだのは部落出身者ではないという立場だった。
一回生のころは出身者じゃないというコンプレックスがありましたね。立場を問われんで済みますから、なんぼ出身者やったら楽やったかと思ったこともありました
 部落出身者が出自にコンプレックスをもつことはあるが、宮本の場合、その逆である。振り子が端から端に揺れるように、部落問題は部落の側の問題であると思っていた高校時代から一転し、いかに部落の立場に立つかが課題となった。一緒に活動しよう、部落差別に反対しようと学内の出身学生に声をかけるが言い返された。
あんたは部落の実態を知っているのか
自分の思いは出身者以外にはわからない
出身者じゃないからクラブやれるんや
 そう言われると、次の言葉が出てこなかった。
(258) 

 この構造、この引け目。

@研究室

by no828 | 2014-10-13 17:50 | 人+本=体


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