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思索の森と空の群青

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2015年 02月 14日

残念乍ら美学を含めた人文学はちっとも進歩しない所に特徴がある——奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』

残念乍ら美学を含めた人文学はちっとも進歩しない所に特徴がある——奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』_c0131823_18512521.jpg奥泉光『『吾輩は猫である』殺人事件』新潮社(新潮文庫)、1999年。61(884)


 版元 ただし電子書籍
 単行本は1996年に(たぶん)同社
 先はまだまだ長いです。写真の範囲に入ってきました。→ 


 舞台は『吾輩は猫である』の時代の上海。この「猫」が主人公で、殺されたのは「苦沙弥先生」です。全616ページ。

 375ページに「馬尻」とあって「バケツ」とルビが振ってあります。また、573ページに「亀毛兎角」とあります。“ありえないもの”を指すようです。亀に毛はなく、兎に角はない。
 すると「兎に角(とにかく)」や「兎角(とかく)」の由来・原意の説明はどうなるのでしょう。「結局」のようなニュアンスがあります。

 自分にはロマン主義的要素が(強く)含まれていると思いました。ロマン主義の問題点もあるとは思い、それがどういう問題点であるかも(少なくとも部分的には)理解・自覚しているつもりではあります。

 学問に関する記述もあり、興味深く読みました。ユーモアのある文章です。


「それに何だか虚しくなって仕舞ってね」
「何が虚しいのだろうか」
「君は先だっての日露の戦争でどれだけの人が死んだか知って居るかい」と虎君は意想外の事を云う。
「何人位だろう」
日本人の死者が二十万、露西亜が三十万さ。計五十万の人間が戦場の露と消えた計算になる。然し本当に夫程の数の人間が死ぬ必要があったのだろうか
戦争なんだから仕方がないのだろう
そう云ってよいのだろうか。戦争は国家がするものだ。果して国家にはそれ程の犠牲を人に強いる権利があるのだろうか
(111)

「私の知って居る或る男抔は、子供の時分に父親を殺したならず者を探し廻って居る裡に白頭白髯の老人になって仕舞った。そうして愈死の床に就て、神父が呼ばれて見ると、何と此神父こそが憎むべき仇だったのさ。互いに人生の巡り合わせに感嘆して、神父の方も既に身寄りのない爺さんだったから、是非殺して貰いたいと願ったら、男は貴公の御蔭で人生を充実させて貰って有り難かったと涙を浮かべて感謝したそうだ」(274)

と云うのも吾輩は勇気と同時に謙譲の美徳を備えた君子的猫である。従ってわざと勇気を誇示して世間にひけらかす抔は遠慮が勝って出来にくい面がある。ロシュフコーとか云う仏蘭西の著述家も、真の勇気は目撃者のいない場合に示されると云って居る。とすれば諸猫が吾輩の行動を見守る現今の状況は吾輩が勇気を発揮すべき所ではない。勇気を発揮したいのは山々なれど、見え透いた真似をするのは吾輩の自恃が許さぬ。考えれば君子とは不自由なものだ。(300-1)

 凡そ浪漫的なる事とは遠くから憧れる所に其本質はある。絶対に手の届き得ぬ存在へ憧憬の視線を投げ、決定的に失われし者を空想の裡に取り戻す所に浪漫はある。幻と知りながら其幻を愛し切る精神こそが正しく浪漫的と呼ばれるにふさわしい。とすれば吾輩の為すべきは、三毛子なる美の理念を脳裏に思い描き、以て清澄なるエーテルの大気中に其理念と一体と化す事である。美しい花を愛でるのではなく、花の美しさを身を焦がす迄に愛し尽くすこそが吾輩に残された事業である。そう云えば昔、ノバーリスと云う独逸の詩人が婚約者の墓前で吾輩と似たような心境になったと聞いた事があるが、誰も考える事は一緒と見える。そうである。吾輩には三毛子の面影がある。決して滅びる事も傷つく事もなく、変らぬ輝きを放ち続ける三毛子のイメジがある。此貴重な宝を生涯に亘って愛し抜こう。左様に決意して見れば、失意の暗黒に一条の光が差し込んだ様な気がして、吾輩はほんの僅か丈元気を回復した。(336-7)

「まして国家転覆を企む様な気力も無い。だいいち国家を転覆したところで住んでいる人間は同じなのだからね。相変わらず馬鹿を相手にしなければならない。教育したって人間の本性はそうそう〔*〕変るもんじゃない。新島や福沢はしきりに教育を云うが、僕は啓蒙家になる程親切でも暇でもないからね。それで別個に国を作ろうと思った次第さ(350)
* 2度目の「そう」は原文では「く」を縦に延ばしたようなあれ

「君は本当の事と云う概念を如何なる意味で用いて居るのかね」と再び将軍が教師然とした調子で云う。「確認して置くが、儂が先刻より述べて居るのは飽くまで仮説である。そも推理競争と云う趣向は、各々の仮説の優劣を競うのではないのかね。科学的仮説の優劣とは『本当の事』抔とは関係ない。現象をどれだけ広範囲に、論理の矛盾なく説明出来るのか、其有効性を以て測られるとは科学論のいろはである。従って儂は自分の推理が本当の事だ抔とは全然主張しない。只現象の説明能力に於て優れて居るのを誇る許りだ。本当の事を仮に真理ととるならば、慥かに真理は一個だろうが、究極の真理を知り得るのは神丈だ。有限性に止まる人間や猫に許された事は、仮説に仮説を重ねて唯一の真理に接近して行く無限の運動丈なのだ。其意味では神ならぬ身である我々にとっては、真理は常に複数あると知るべきだ」(419-20)

「そんな事じゃ済まないさ。犠牲、犠牲と君は平気で云うが、そんなに簡単なものじゃない。まず第一からが、実際死ぬのは革命を志す者丈じゃないのだからね(466)

「つまり君の発明が悪用されたりする事が心配になる事はないのだろうか」
「悪用と云うと」
例えば君の発明が戦争に応用されて、何千、何万の人間を一遍に殺したら寐覚めが悪いんじゃないかね
そんな事を気にしていては科学の進歩発展は到底望めやしませんや
(534)

「いいですか、先生。私が思うに、美学を含め人文の学問とは人間の幸福について考える学問だと思われます。先程科学の応用の話が出ましたが、科学を如何に人間の幸せに使うか探究するのが、是からの人文学の主な課題になる筈です。である以上自然科学の進展に歩調を合わせて諸学問にも進歩して貰う必要があります
「そう云うがね、残念乍ら美学を含めた人文学はちっとも進歩しない所に特徴があるのだ。考えてもみたまえ。ソクラチスの時代に較べて我々は少しでも進歩があるかね。あるいは仏陀や基督より偉い人物が其後出ただろうか。ニーチェも云う様に、希臘の哲学から較べたら現代の哲学は寧ろ後退している位だ。だいたい学問の対象たる人間が古来から変って居らんのだから、人間に関する学問が進歩しないのは理の当然だ」
(536)


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by no828 | 2015-02-14 19:06 | 人+本=体


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