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思索の森と空の群青

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2015年 07月 16日

経験がないから、想像力というものが無いのである——佐野洋子『私はそうは思わない』

経験がないから、想像力というものが無いのである——佐野洋子『私はそうは思わない』_c0131823_203028.jpg佐野洋子『私はそうは思わない』筑摩書房(ちくま文庫)、1996年。95(918)


 単行本は1987年に同書房
 版元

 そろそろ終わるとは思う → 


『100万回生きたねこ』が有名な著者のエッセイ。一般の本の「まえがき」には「「まえがき」のかわりの自問自答」と題されたものが配されていて、質問とそれに対する少し長めの回答が書かれています。

 1番長い引用は、1番考えさせられたというか、自分のバングラデシュでの体験と重ねられ、改めて考えさせられたところです。考えて、それで自分はどうしたいのか、考えるだけなのか、そういうことも考えました。答えを出せ、と言われるなかで、答えを出せない、答えを出さない、というところに踏みとどまることも正直なかなか疲れますが、それ以外にないように考えられるので、いまは何とかそこにいます。

 経験がなくても想像力は育めると思っていました。しかし本書には「経験がないから、想像力というものが無い」という文章があって、たとえば純粋な知識の入手は経験なのかなど、「経験」という言葉にどこまで詰め込むかにもよりますが、はっとさせられたというか、“そうかもしれない”と思わされたところがあります。

 純粋な知識の入手もまた経験に数えるなら、それを入手させる行為としても教育はあり、教育とはだから子どもを辛い気持ちにさせることでもあるということです。しかし、こうではない世界の提示でもある教育がなければ、子どもは現状をそれ以外にはありえない世界としてただただ受容する以外になく、それでよいのかとわたしは思ってしまいますが、だからどんどん教育をとも思いません。


◆子供のころいちばん悲しかったことはなんですか
「悲しい」って名前をつけた感情は、「悲しい」だけで出来ていないって思うわけで、私は一心同体みたいに異常に仲が良かった兄が居て、兄は私が十歳の時死んだのね。だけどそれは「悲しい」だけではないわけでね。きっともっと言い現〔ママ〕わせないものだと思うけど、それを「とても深い悲しさ」って言っても「いちばん大きな悲しさ」でも違うのね。
(11)

 彼女の高校時代の女友達のグループは週二回の当番制をきめて、看病にあたっていた。私たちは貧乏だった。彼女も私と同じ様に貯えなどなかったにちがいない。しかし、何千万の貯えより、いざという時に手を握り続けてくれる女友だちが沢山いる事の方がどんなに心強いことだろう(30)

 今私が人生最悪の時であったとしても最悪であるがために最良であると思う。(103)

 小学校一年の夏、大連で終戦を迎えた私は、今考えると、私も又ずい分過酷な子供時代を過ごして来たと、思う。
 終戦後の一年半程は一日も学校へ行かなかった。両親はその日その日の食べ物を手に入れることが精いっぱいだった。
 こうりゃんとふすまと豆かすを食べていた。しかし、子供の時、私達はそれをつらいとか悲しいとか、もっとおいしいものを食べたいとか思わなかった。そういうものだと思っていた。経験がないから、想像力というものが無いのである。明日の運命を不安に感じることもなかった。〔略〕
 両親を失った子供達が、街で浮浪児になって、夜おそく、道に面した窓ガラスに顔をぴったりくっつけて、家の中をのぞき込んでいる事があった。その時、感じた心臓がちぢみ上がる様な怒怖があの混乱の一年半の中で一番鮮烈であった。私はふとんの中で、窓ガラスに顔をくっつけていた十歳か十一歳くらいの子供を思い出すと、体が固くなって動かなくなった。
 どこで寝るのだろう。この寒い暗い街の中でこわくはないのだろうか。たった一人で、くしゃくしゃの紙の中にどこからかもらって来たトウモロコシのパンを二個みせて、笑っていた。あれを食べちゃったらどうするのだろう。あの男の子が泣いているのではなく私達に向かって笑っていた事が私の心臓を固くした。
 しかし、人間とは厚かましい程自分勝手である。私は自分があの子と同じ運命に陥るとは考えないのである。私は兄があの子と同じになったらどうしよう、弟がそうなったらどうしようと思って、ふとんの中で泣いた。兄があの子と同じになった様子はすぐ目にうかぶ、自分の様子は思いうかばないのである。
 しかし、あのガラス窓一枚をへだてていたものが、ほんとうにガラス窓一枚の「運」だけであった事に今恐怖におそわれる。
 何故、あの子は雪の降った暗い街に立ち、何故私はストーブのある家の中に居られたのか。

 そこで生きのびた五歳の弟は、日本へ帰ってすぐ死んだ。次の年には兄が死んだ。
 何故、私でなく、弟が、兄が死んだのか。
(142-4)

 白目をむいて、「僕はそうは思わない」という育てにくい息子や娘たちの、僕はそうは思わないを大事にするより外ないのかなあと思う。(157)

 同じ行為が受け手によって全く違う意味を持つのだ。さらりと流せる人間もいる。こだわり続ける人間もいる。こだわり続けることで自分を創る人もいれば、流すことで生き続ける人もいる。私たちは教師によって育てられたのではない。自分で生きて来たのだ。それぞれの力で、それぞれの魂をもって。
「キャー汚い」と教師に言われたあの子もきっとどこかで生き続けている。
一生忘れない傷を抱えつづ〔ママ〕けているか、ケロリと流して子育てをしているか、私にはわからない。そのどちらでもないかも知れない。
(160)

 理想の子どもなんか一人もいないように、理想の教師なんてのもいない。思い通りになんかならないのだ。お互いさまなのだ。
 生涯の導き手になるような教師に出会えたら幸運である。しかし出会えなくても不運ともいえないのである。
 あん畜生のようにはなりたくねえと思わせる事が出来るのも人間だからである。
 それぞれが自分の中に生き続ける力を持っている。それぞれの異なった魂が生き続けるのだ。
(161)

 家の中で母親と近所の小母さんが泣いていた。泣きながら母親は「戦争は終ったのよ」と言った。「勝ったの?」私は聞いた。「終ったのよ」「負けたの?」「終ったのよ」
 その日校庭で聞いた天皇陛下の声はザーザーという音ばかりで鉄板に砂を流しているみたいだった。私には何もわからなかった。
 ただ極上の天気で空が真青だった。
(176)

 私はくしゃくしゃの赤ん坊を見た。見たこともないかわいい赤ん坊だと思った。小さな手に小さな小さな爪がちゃんとついていた。どうやってこれを作ったんだろう。学校の時あんなデッサンが下手ですぐデフォルメしてしまう私が、どうしてこんなに精巧な爪をと、くんくんかいで見た。こんないい匂いかいだことがない。初めておっぱいを飲ませた。赤ん坊は巨大な私のおっぱいに必死に小さい口をあてて吸いついて来た。健気で不憫でいとおしかった。私が泪がだらだら流れて来た。どんなことをしても私はこの小さなものを守らなければならぬ、と思った。そして突然、この子が八十になった時、その孤独を誰が慰めるのかと考えた。私は生まれたばかりの赤ん坊にお乳をやりながらその子の八十の孤独のために泣いた。(190-1)

 川上未映子の『きみは赤ちゃん』が非常に強く想起されました。そして、佐野と川上の感受性の相似を思いました。

 非常に貧しい食生活はそのあとの数年間だった。多分母の生涯の中ではその数年間は異常な時期だったのだろう、しかし、私にはその異常な貧しい食生活が正常で、そのあとの次第に豊かになった食生活の方が異常なのだと体にしみついているのである。私はすこしぜいたくでおいしいものを食べる時、居ごこちの悪い罪の意識をふりはらうことが出来ない。そして人が生きるということはどうにかこうにかやっと食うという事だと、それが正常だと思うのである。私は貧しさのあとの繁栄の時代を長々と生きて来ているのにそれが信じられない。(221)

 すごく共感します。わたしもまた、幼い頃に祖父母や父から戦時中や敗戦直後の食事情を聞かされて育ち、“食べられるだけでよい”という感覚が基本にあります。だから高くておいしいものを食べることの積極的な意義がよくわかりませんし、食べるときには罪悪感を少し覚えます。

@研究室

by no828 | 2015-07-16 20:20 | 人+本=体


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