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思索の森と空の群青

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2015年 09月 15日

私が誰かを搾取してしまう可能性はそこここに秘められている——上田紀行『ダライ・ラマとの対話』

私が誰かを搾取してしまう可能性はそこここに秘められている——上田紀行『ダライ・ラマとの対話』_c0131823_2010683.jpg上田紀行『ダライ・ラマとの対話』講談社(講談社文庫)、2010年。 9(931)


 単行本は2007年にNHK出版
 
 版元


 2006年12月に行なわれた、著者上田紀行とダライ・ラマ14世との対談の記録。「対談」と書くととても穏やか和やかな印象を持たれるかもしれません。であるなら、本書は「議論」の記録であって、思考の躍動感が伴っていたように思います。ちなみに、「ダライ・ラマ」とは「大海のように広大な徳を持つ」の意。

 先日、映画「ルンタ」を映画館で観たばかりです。中国政府に対し焼身という方法で抗議する人びとがいます。インドのダラムサラに住み、“チベット人”を支援し続ける“日本人”のドキュメンタリーです。チベットのドキュメンタリーには、本書で上田が言及している「ヒマラヤを越える子供たち」という映画もあるようですが、これはまだ観ていません。某熱帯密林では、中古品のみの取り扱いとなっています。

 参考:映画「ルンタ
    チベットNOW@ルンタ


ダライ・ラマ 私はヨーロッパ諸国のような社会民主主義こそが正しい方向なのではないかと考えています。〔略〕個人がお金を儲けて、利益を得る自由があるという意味では資本主義的ですが、それと同時に、社会保障、社会福祉に関するケアも十分にあるというような社会体制です。(35)

ダライ・ラマ 世界のどんなところでも、人間はほかの人々とともに生きていくほうがより容易に生きていけるという理由から、私たちは村をつくったり、町をつくったり、都市を形成することによって、一つのコミュニティのなかで、社会的な生活を営んでいるのです。(39)

ダライ・ラマ 未開発な地域においては、人間同士がお互いに協力することが必要になります。〔略〕より協力的になることを必要とされる社会に生きていればいるほど、私たちには、自分がその社会の一員であるという感覚がより強くなるのは必然的なことではないでしょうか。
 ところが、大都市に住んでいる人たちのことを考えてみると、各個人は、会社や工場なので働いていて、それぞれのサラリーを得ている。〔略〕自分自身がまったく独立採算を営むものとして完結しているような感覚を生じてしまうわけです。〔略〕そのような場合には、自分が社会に属している一人の人間であるというような感覚が薄れてしまっているのではないでしょうか。そして、自分は独立して仕事をし、自分で自分の口を養っているのだ、といった感覚が芽生えていきますと、間違った認識を持つようになってしまいます。自分はほかの人たちにはまったく依存する必要はなく、独立した存在であるというような、間違ったものの考え方に陥ってしまうわけです。
(40-2)

ダライ・ラマ 近代的な教育システムは、人間的なやさしさという、私たち人間にとって欠かすことのできない、一番大切なものを育むことに完全に失敗しています。そこで、近代的な教育システム全体を改めて考え直さなければならない時期にきているのではないか、と思うのです。(55-6)

上田 世界の仏教国といわれる国が、物質的にどこも貧しい国だということです。スリランカにせよ、タイにせよ、ミャンマーにせよ、南北問題の南と北という面から見れば、すべて南の国に属するわけです。日本は仏教国だといわれますが、なぜ日本がこんなに物質的に発展したかといえば、仏教国でなくなった、仏教の教えを重要視しなくなったからではないか、というふうにいってもいい部分もあるかと思います。(58-9)

ダライ・ラマ 私自身も搾取者です。つまり、私は高僧の立場、偉大なるラマの立場にあるのです。私が、自分自身を自己規制している限りはそういうことにはなりませんが、もしそうでなければ、私が誰かを搾取してしまう可能性はそこここに秘められているのです。(65)

上田 仏教者が、その怒っていること自体がよくないというふうにいってしまうとき、それは目の前にどんな不正があっても、社会制度のなかにどんな差別があっても、怒らず騒がず毎日ニコニコと生きましょう、といった恐ろしく社会性を欠いた独善主義に容易に転化してしまいます。そしてそういった態度によって、社会に存在する格差が温存されてしまったり、不正をなくしていこうという社会的な改革の芽を摘んでしまって、結局は何も起こらなくしてしまう。(73)

ダライ・ラマ 仏教では、そもそも一番初めの段階から、信仰と論理は両立していなければなりません。論理性を欠く信仰は単なる妄信となってしまいます。〔略〕信仰は単なる妄信的な信心ではなくて、自分が信心をするに値する適切な土台を釈尊の教えが持っているということについて、自分自身が確信することが必要なのです。(79-80)

ダライ・ラマ 小乗における仏教の教義は、ほかの命あるものを害さないということを教えていますが、大乗における教義においては、単に他者を害さないということだけではなく、他者を助けていく。利他を為そうということを強調して説いているのです。(89)

ダライ・ラマ 捨てるべき執着とは、偏見に基づいている欲望のことです。しかし偏見のない心が持つ価値ある欲望は、捨てるべき執着ではありません(100)

上田 自らの解脱を追究する小乗仏教の伝統を持つタイにおいても、まだ少数派ではありますが、僧侶たちのなかには、社会活動に携わる人が増えているといわれています。
ダライ・ラマ (驚いて)タイでですか? それは知りません。
上田 これは一九七〇年代以降のことだと思うのですが、社会的活動に積極的に関わろうという僧侶たちがタイでも出てきました。「開発僧」と呼ばれる僧侶たちですが、エイズの人たちのためのホスピスを建てて活動したりとか、人々を貧困から救うために相互扶助の運動を展開するとか、社会派の僧侶たちが出てきたのです。
(194)

ダライ・ラマ しかしその話には矛盾がありますね。さきほど、あなたは日本社会では個人のアイデンティティが失われてきた、という話をしていましたね。つまり自分というものはどんな他人によっても置き換えられてしまう存在で、日本では自分というものが見失われていると。しかしいま、日本人が非常に利己的になっていっているとおっしゃっている。それは不思議ですね。自分というものがない、つまりエゴを見失っている人たちが、どうしてエゴイスティックになれるのでしょうか? エゴがない人はエゴイスティックになれないでしょう?
上田 〔略〕他人の目を気にして自分の発言は抑制する。そしてきちんと公共の場で発言しない分、自己の責任も取らない。それはある種、未成熟なエゴともいえます〔略〕が、しかしそうした無責任なエゴがどんどんエゴイスティックになっている。〔略〕
 その背景にあるのは、私たち日本人が、私たち自身に対する自信とかプライドを欠いていることではないかと思います。つまり、無条件の私、あるいは、あるがままの私というものに対する自信を欠いているのです。〔略〕そうした自尊心とか自己信頼を欠いている人間というのは、まさに利己的(エゴイスティック)になっていかざるを得ません。というのは、無条件の自分に対しては自信がないわけですから、それでもかりそめの自信を高めるためには、自分の収入であったり、地位であったり、お金であったり、そうしたものを高めていかなければいけない。
(203-6)

ダライ・ラマ 仏教における帰依というのは、特に大乗における帰依が意味しているのは、自分自身がブッダのようなすばらしい存在になりたい、と強く願うことですから、そこには個人のプライドがたいへん強く存在しているわけなのであって、それは依存ではないのです。
 ところが、神の存在を受け入れている宗教においては、すべては神が創造し決定するわけですから、神が偉大で、自分自身には何の力もないといった認識を持ちがちになってしまいます。
(216)


@研究室

by no828 | 2015-09-15 20:22 | 人+本=体


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