2015年 10月 06日
開高健『夜と陽炎——耳の物語**』新潮社(新潮文庫)、1989年。17(939) 版元 なし 『破れた繭』の続き。苦悩と再生。 開高がアイヒマン裁判を傍聴していたという事実をはじめて知りました。本書では言及がありませんでしたが、ハンナ・アレントもそこにいました。 何よりかより、書きたい衝動が消えてしまい、何を、どう書いていいかもわからず、書けないことの煩悶や焦燥も感じない。もちろん作家になりたいという気持の起りようがなく、ウィスキーの宣伝文を書くだけが精いっぱいのところである。ほかには何の技も能もないので、これにしがみつくしかなく、一生酒浸りで終ってしまうことと、思いきめていた。毎夜、毎夜、本を読むことだけは中毒になったみたいで、手あたり次第にめちゃな乱読、雑読にふける。そして何を読んでも、すべては書かれつくしてしまった、あらゆる発想で書きたいように書かれてしまったと思うしかなかった。ごくたまに何か書いてみようかと思うことがあるが、書きだしの一語、一行はことごとくどこかで読んだ他人の文ばかりで、そのとめどなさに圧倒され、窒息してしまって、ペンをとりあげることすらできない。それまでとはちがった質の憂鬱と倦怠があらわれて澱みこみ、腐潮が体内につまって、顔をあげる気力もなかった。(15-6) E・H・カーの『マルクス』を読むと、剰余価値学説が科学的に完全に誤謬であるとの説が展開してあった。それはみごとな正々堂々の論破といってよいものであるが、この際重要なのはカーが自分をマルクス以上のマルキストだと規定しながらやっているという一点なのだ。マルクス以上のマルキストがマルキシズムが科学であるという核心の論拠を完膚なきまでに叩いているのだ。この一点に凡百のマルクス解釈に発見できない鋭さと魅力がある。傑出しているんだ。これにはつくづく教えられたな。おれ〔谷沢永一〕はもう読んだから近日中にとりにこい。あれはええ本や。書棚にのこしておきたい稀れな本の一冊やな。(??) しかし、インスピレーションは九九パーセントのパースピレーション(発汗)だという名言があるのだから、地道でまっとうな経験と努力で養成するしかないのでもある。(38) 考える人には喜劇、感ずる人には悲劇というのがこの世なのだというマキシムをどこかで読まされたように思うが、立食パーティーでは瞬間があるだけで、考えこむこともできなければ感じこむこともできない。つまりそれは悲劇でもなければ喜劇でもなく、ただ破片の寄せ集めにすぎないのである。(59) 「……いったい、ブルジョワって、何なんでしょうね。金をたくさん持つことですか。大きな家を持つことですか」 この翌年にひっそりかくれて暮していた旧ナチスの親衛隊大佐がイスラエルの工作員によって拉致されてイエルサレムへはこばれ、裁判にかけられるという事件が発生した。そこで出版社へ出かけて臨時特派員として買うつもりはないかと相談を持ちかけると、その場で身分証明書をつくってくれたので、羽田から出発した。〔略〕毎日、裁判所にかよって、イヤホンを耳につけて傍聴にふけったのであったが、まったく退屈であった。昔の写真で見る大佐は冷酷で傲慢で有頂天になっている美貌の青年だが、防弾ガラスにかこまれて佇立しているのは、禿頭にイヤホンをかけ、しじゅう顔面神経痛で頰や眼をひきつらせている、ときには端正、ときには臆病とも見える初老で長身の男であった。何を訊かれても彼は徹底的に命令でした、抵抗は不可能でした、歯車でありましたと返答するだけであり、そのしぶとさはなかなかのものと思えることがあった。これにたいして禿頭の検事は流亡二〇〇〇年のユダヤ人の執念をこめて彼が情熱や感傷のある“人間”であったこと、それによって数十万、数百万の全ヨーロッパのユダヤ人列車のプログラムを組みあげたのだという事実を立証しようとすることに没頭していた。〔略〕そして、声低く、そのコニャックはどんな味がしたかと、たずねた。大佐はうっかり日頃の用心を忘れ、長時間の大会議のあとでしたのでそのコニャックはうまかったですと、答えたのだった。とたんに検事は禿頭を赤くして、君は人間だったのだ、歯車ではなかったのだと、食いついた。(134-5) 妻が叫ぶ。 市内でテロがあって米軍宿舎や右派新聞社やキャバレが爆破されると、厚皮動物のような膚になりかかった心を切実なナイフで一裂きされるようだが、これも度重なると交通事故の血とどこが違うのか、まぎらわしくなってくる。ナパーム弾と火焔放射器で村を焼かれた農民が市内へ避難してきてゴミ箱のかげで寝ている姿も、はじめは心痛んでならないのに、やがては眼に入らなくなってしまう。正午頃に中学校の校門のあたりを通りかかると色とりどりのアオザイを着た、顔の丸い、眼の大きい少女たちが小鳥のように甲ン高い声で笑ったりふざけたりしてあふれ出してくる。夜になってフランス料理店へいくとカーペットが敷きつめられ、テーブルには花が盛られ、みごとに爽やかなヴィシソワーズのスープがはこばれてくる。(154) そのたびに反省して、おれはやっぱり外国人で第三者にすぎないのだなと、痛烈に思い知らされる。それが度重なると、いくらかふてぶてしくなり、よし、第三者にしか知覚できない現実に徹してやるぞ、第三者にしか見えない現実というものもあるのだからな、と思いきめることになる。たとえそれが左と右の現地人の当事者から嘲罵される程度のことにすぎなかったとしても、第三者の眼は眼であるだろう。〔略〕決定的に不満なのは左と右のどちらからもこの立場の証言の現実性なり正当性なりを立証しようとする証人が出ないことである。つまりは影の争闘の影の証人でしかあり得ないということにある。平穏無事ですごせるはずのトーキョーからやってきていったいこれは何という穴に陥ちこんだものだろう。(156) バスは朝の六時からうごきはじめるけれど、その時刻では夜なかに活動していた軍隊がようやく引揚げにかかるので街道にVC(ヴェトコン)ゲリラが埋めた地雷が生きていることがしばしばあり、一番バスや二番バスがひっかかってよく吹飛ばされる。だから一番や二番は避けて三番ぐらいのバスに乗るのがいい。〔略〕村に入ったら子供の顔をよく見ろ。清潔で子供があまり笑っていない村はゲリラに浸透されていると知り、不潔でだらしないけれど子供がニコニコ笑っている村なら大丈夫だと知るべきである。しかし例外もたくさんあると心得ておかねばならない。誰とも政治や戦争の話をするな。とりわけ熱中してやるな。(166-7) 生の本質については科学者と宗教家がさまざまの意見を書いているが、亜熱帯のギラギラする日光のさなかでは、それは動きであると腹にしみて教えこまれる。動くこと、運動することが生の本質である。死体の眼が動かないからそれは死体なのだ。ただ瞳が動かないからそうなのではなく、無数の、一瞬もじっとしていない、透明な陽炎とでもいうべき動きを含んでいないからそうなのである。日光が一瞬もじっとしていないようにそれは不動であり得ない。こちらを瞶〔みつ〕めていながら何も見ていない眼だから死体はいつまでも異物である。異形である。(169) 「しかし、迫撃砲で赤ン坊が死ねば、親である兵士は士気〔モラル〕を失うのじゃありませんか。家族と兵をわけておいたほうが兵の士気は傷つかないのではありませんか?」 日本語で“秋水”と書けば、それは日本刀を意味するが、ある時期の中国では、それは女の美しい眼のことをさすのだと一語を知るだけでも救われるものをおぼえさせられた。アジアの女の鋭い、細い、澄みきった眼を表現するのに、ちょっとこれ以上のものはあるまいと思われるほどの名言であるかと感じられる。それをいささか延長すると、“秋のような眼をした水のような女”という表現がどこかにあったようだし、いますぐどこかにそう書きつけてもいいなと、感嘆しつつたわむれることができた。(212-3) アンカレッジの放送局が流したものと思われるが、その低い、柔らかい、おだやかな呻唸は悲愴を含みつつも隠忍でよくおさえ、詠嘆しながらどこか晴朗であった。それまでの半年以上におよぶ抑鬱と、泥酔と、蟄居、妄想で荒みきっていた心に、曲は、澄みきった、冷めたい水のように沁みこみ、のびのびとひろがって、輝いた。悲痛な呻唸かと思いたいのにどこかけなげに捨棄したものがあり、孤独そのものなのに呪詛はなく、いいようのないいじらしさがある。茫然と心身をゆだねて氷雨にけむる原生林を見るともなく見やるうちに、涙がつぎからつぎへとこみあげ、嗚咽をこらえるのに苦しんだ。どこにこれだけのとあやしみたくなるくらい涙がとめどなく流れておさえようがない。まだ泣けることを教えられて狼狽をおぼえ、茫然としているうちに曲が終った。成熟した男の低い声が早口で作曲者の名と曲名をささやいた。作曲者の名は聞きもらしたが、“アダージォ・イン・ジー・マイナー”と曲名だけは聞きとれた。 @研究室
by no828
| 2015-10-06 20:37
| 人+本=体
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自省のために。他者の言葉に出会うから自分の言葉を生み出せる。他者の言葉に浸かりすぎて自分の言葉が絞り出せなくなることもある。自分の言葉と向き合うからその言葉は磨かれる。よろしくお願いします。 by no828 カレンダー
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