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思索の森と空の群青

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2015年 11月 14日

「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」で——伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」で——伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』_c0131823_154536.jpg伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』光文社(光文社新書)、2015年。26(948)


 版元
 ※ 帯の「<見えない>」は「〈見えない〉」のほうがよいのかもしれません。<>は不等号、〈〉は山括弧。


 著者の専門は生物学寄りの美学。本川達雄の『ゾウの時間ネズミの時間』、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環世界」概念、日高敏隆の『動物と人間の世界認識』などを踏まえた身体論。「環世界」は、「自分にとっての世界」(34)とされています。「生きものは、無味乾燥な客観的な世界に生きているのではありません。自分にとって、またそのときどきの状況にとって必要なものから作り上げた、一種のイリュージョンの中に生きているのです」(34)。

 では視覚障害者の環世界とはどのようなものか。視覚障害者の内側からその世界を覗いてみようというのがこの本書の企図です。その姿勢は現象学とも近いものがあるように思いました。

 講義で本書を紹介しました。本務校でのわたしの講義には「福祉」を専攻しようとする学生——ほとんど1年生——がいます。厳密には、高校の「福祉科」教員免許を取得しようとする学生がいます。本書には「福祉的視点」や「福祉的態度」が批判的に言及されており、それが本書全体にかかる著者の態度をも示しています。なぜ「福祉的」が批判されているのか、それを理解しておくことは「福祉」を学ぼうとする学生にも必要なことでしょう。

 わたしはまた、盲聾の学生——M君と言います——に講義をしたことがあります。非常勤講師先の一斉授業でした。わたしは通常どおり講義をします。M君の傍らには指文字通訳の方が付き、わたしの板書の内容や口頭での説明が訳されていきます。板書の内容は事前にM君本人宛てにメールで送り、他の学生には講義中に5〜10分で書いてもらうリフレクションをM君からはメールでわたし宛てに送ってもらうようにしていました。M君にとっての言語、M君にとっての世界、この本を読みながらそのM君のことを時折思い出しました。


 自分と異なる体を持った存在のことを、実感として感じてみたい。(21)

 本書のテーマは、視覚障害者がどんなふうに世界を認識しているのかを理解することにあります。私が視覚障害者数名にインタビューを行い、対話を重ねながら、彼らの見ている世界のあり方を分析したものです。〔略〕視覚を使わない体に変身して生きてみること。それが本書の目的です。(23)

 美学とは、〔略〕言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。〔略〕
 美学というのは、要はこの〔「いわく言いがたいもの」の意であるフランス語〕「ジュネセクワ」〔je ne sais quoi〕に言葉でもって立ち向かっていく学問です。
(25)

私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。(30)

私が危惧するのは、福祉そのものではなくて、日々の生活の中で、障害のある人とそうでない人の関係が、こうした「福祉的な視点」にしばられてしまうことです。
 つまり、健常者が、障害のある人と接するときに、何かしてあげなければいけない、とくにいろいろな情報を教えてあげなければいけない、と構えてしまうことです。そういう「福祉的態度」にしばられてしまうのは、もしかするとふだん障害のある人と接する機会のない、すなわち福祉の現場から遠い人なのかもしれません。
(36-7)

 福祉的な態度では、「見えない人はどうやったら見える人と同じように生活していくことができるか」ということに関心が向かいがちです。つまり、見える人の世界の中に見えない人が生きている。もちろん、現実にはさまざまな社会的インフラは見える人の体に合わせて作られていますから、それはそれで大切です。しかし、木下さんの言う「そっち」は、見える世界と見えない世界を隣り合う二つの家のようにとらえています。「うちはうち、よそはよそ」という、突き放すような気持ちよさがそこにはあります。(41)

人は多かれ少なかれ環境に振り付けられながら行動している(53)

都市というものを、ひとつの巨大な振り付け装置として見てみる。そうすると、見える人と見えない人の「ダンス」の違いが見えてきます。(54) ▶ アーキテクチャ

点字は、手で打つときと読むときでは、紙を裏返します。するとパターンが左右反転してしまう。(89) ▶ 知らなかった。

触覚を重視する思想家もいましたが、その場合にも触覚はあくまで「視覚に対するアンチ」の地位しか与えられていませんでした。(95)

 教育とは、触る世界から見る世界へ移行させること(95)

「分かり合えないこと」はもちろん大切なのですが、でも、それは最後でいい。まずは想像力を働かせてみたいのです。見えない体に変身すること。〔略〕そのためにはまず、器官と能力を結びつける発想を捨てなくてはなりません。器官にこだわるかぎり、際立つのは見えない人と見える人の差異ですが、器官から解放されてしまえば、見える人と見えない人のあいだの類似性が見えてきます。(112) ▶ 平田オリザ『わかりあえないことから』

高齢化社会になるとは、身体多様化の時代を迎えるということでもあります。〔略〕これからは、相手がどのような体を持っているのか想像できることが必要になってくるのです。(151)

陶器だと言われた瞬間に陶器になる(176)

鑑賞するとは、自分で作品を作り直すことなのです。(177)

「見えていることが優れているという先入観を覆して、見えないことが優れているというような意味が固定してしまったら、それはまたひとつの独善的な価値観を生むことになりかねない。そうではなく、お互いが影響しあい、関係が揺れ動く、そういう状況を作りたかったんです」(185-6)

見えていても分からないんだったら、見えなくてもそこまで引け目に思わなくてもいいんだな、見えている人がしゃべることを全部信じることもなく、こっちのチョイスであてにしたりしなかったりでいいのかな、と思い始めました」(186-7)

Aさんが作ったのとBさんが作ったので出来上がりが違うのでは困る。「誰が作っても同じ」であることが必要であり、それは「交換可能な労働力」を意味します。
 こうして労働が画一化したことで、障害者は「それができない人」ということになってしまった。それ以前の社会では、障害者には障害者にできる仕事が割り当てられていました。ところが「見えないからできること」ではなく「見えないからできないこと」に注目が集まるようになってしまったのです。〔略〕
 そして約三十年を経て二〇一一年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されています。「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。〔略〕「個人モデル」から「社会モデル」〔へ〕の転換が起こったのです。
「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。
 先に「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ、と述べました。私がそう考える理由はもうお分かりでしょう。「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。そうした「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」でとらえられた障害であるように見えるからです。むしろ「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです。
(211)


@研究室

by no828 | 2015-11-14 15:36 | 人+本=体


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