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思索の森と空の群青

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2016年 03月 15日

病歴を一段と掘りさげ、ひとりの患者の物語にする必要がある——サックス『妻を帽子とまちがえた男』

病歴を一段と掘りさげ、ひとりの患者の物語にする必要がある——サックス『妻を帽子とまちがえた男』_c0131823_19523067.jpgオリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』高見幸郎・金沢泰子訳、晶文社、1992年。47(969)


 版元

 原著は、Oliver Sacks, The Man who Mistook His Wife for a Hat, 1985

 2015年に残してきた本


「病気」や「医療」についてのエッセイ。病とともにある者を決して突き放さない態度、ユーモアとともに見守る態度が、サックスには一貫しています。人間とはどのような存在なのか、深く思考するための契機が散りばめられています。

 96ページなどに「物理療法専門医」という表記があり、原著を確認していないのですが、これは「理学療法士」(Physical Therapist: PT)のことではないかと思いました。


病気こそは、人間の条件のうちの最たるものといえるだろう。なぜならば、動物でも疾病〔ディジーズ〕にはかかるけれど、病気〔シックネス〕におちいるのは人間だけなのだから(12)

これ〔=病歴〕は、個人についてや彼自身の内面の歴史については何も語らない。病気にあい、それに負けまいとしてたたかう当人のことや、彼がそこで経験したことについては、何も伝えていないのである。この狭い意味での「病歴」のなかには、主体はいないのである。たとえば現代でも病歴を記すとき、「三染色体をもつ二十一歳の女性」などと書く。これで主体〔サブジェクト〕にふれたつもりでいたらそれは考えちがいで、こんな書き方ならねずみについても同じように書けるはず、人間として扱ったものとはいえない。人間を——悩み、苦しみ、たたかう人間をこそ中心に据えなければならないのであって、そのためにわれわれは、病歴を一段と掘りさげ、ひとりの患者の物語にする必要がある。そうしてこそはじめて、「何が?」だけでなく「誰が?」ということをわれわれは知る。病気とつきあい、医者とつきあっている生身の人間、現実の患者個人というものを目の前にするのである。(12-3)

フロイトによれば、偏執狂の妄想は、こなごなにくだけて混沌と化した世界を何かによって償おう、もう一度再構築〔ママ.同語反復?〕しようという努力の結果と考えられた。努力のあらわれ、という点が大事なのであって、手段がまちがっていようと問題ではないのである。(27)

「あなたが考えつくことはなんでも、良いと思うことはなんでもやってみてください。彼の記憶がもどる見こみは、まずまったくないのです。でも人間は、記憶だけでできているわけではありません。人間は感情、意志、感受性をもっており、倫理的存在です。神経心理学は、それらについて語ることはできません。それだからこそ、心理学のおよばぬこの領域において、あなたは彼の心に達し、彼を変えることができるかもしれないのです。〔略〕神経心理学の上からいえば、われわれにできることはほとんどない、いやまったくないといっていい。しかし人間としては、すくなからず何かができるかもしれないのです(73-4)

彼女は、これからもずっと欠陥をかかえた敗北者でもある。世界中の英知と創意をもってしても、考えうるあらゆる神経系の代替・補償機能をもってしても治ることのない固有感覚の喪失という事実を変えることはできないのだ。固有感覚こそ、大切な六番目の感覚なのである。それがなければ、からだは感じられる実体ではなくなり、本人にとっては「失われて」しまうのである。(108)

彼ら〔=失語症患者〕は言葉のもつ表情をつかむのである。総合的な表情、言葉におのずからそなわる表情を感じとるのだ。言葉だけならば見せかけやごまかしがきくが、表情となると簡単にそうはいかない。その表情を彼らは感じとるのである。(155)

 失語症の患者はそれを聞きわける。言葉がわからなくても本物か否かを理解する力をもっている。言葉を失ってはいるが感受性がきわめてすぐれた患者には、しかめ面、芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャー、とりわけ、調子や拍子の不自然さから、その話が偽りであることがわかる。だから私の患者たちは、言葉に欺かれることなく、けばけばしくグロテスクな——と彼らには映った——饒舌やいかさまや不誠実にちゃんと反応していたのだ。
 だから大統領の演説を笑っていたのである。
(156)

彼女はこう言った。「説得力がないわね。文章がだめだわ。言葉づかいも不適当だし、頭がおかしくなったか、なにか隠しごとがあるんだわ」と。こうして大統領の演説は、失語症患者ばかりでなく、音感失認症の彼女も感動させることができなかったのだ。彼女の場合は、正式な文章や語法の妥当性についてすぐれた感覚をもっていたせいであり、失語症患者のほうは、話の調子は聞きわけられても単語が理解できなかったせいである。
 これこそ大統領演説のパラドックスであった。われわれ健康な者は、心のなかのどこかにだまされたい気持があるために、みごとにだまされてしまったのである(「人間は、だまそうと欲するがゆえにだまされる」)。巧妙な言葉づかいにも調子にもだまされなかったのは、脳に障害をもった人たちだけだったのである。
(158)

われわれは「物語」をつくっては、それを生きているのだ。物語こそわれわれであり、そこからわれわれ自身のアイデンティティが生じると言ってもよいだろう。
 ある人間のことを知りたければ、その人の「物語」、ほんとうの内面の物語はどんなものなのか聞けばよい。一人一人が一個の伝記であり、物語だからである。二つと同じものはない。それは、われわれのなかで、自分自身の手で、生きることを通して、つまり知覚、感覚、思考を通じて、たえず無意識のうちにつくられている。口で語られる物語はいうまでもない。生物学的あるいは生理学的には、人間は誰しもたいして変らない。しかし物語としてとらえると、一人一人は文字どおりユニークなのである。
(200)

 一言で言えば、それ〔=「知恵遅れの世界」に特有のもの〕は「具体性」ということである。彼らの世界は生き生きとして、情感するどく、詳細にわたり、それでいて単純である。具体的だからである。抽象化によって複雑になることも、希薄になることも、統一されてしまうこともないのである。
 万物自然の本来のあり方からいえばむしろ逆なのだが、とかく神経学者は「具体性、具体的な事象」を、劣った、考慮に値しない、統一を欠いた、後退的なものとみている。だから、体系化、組織化にかんして当時第一人者といわれたクルト・ゴールドスタインなどは、人間の精神は抽象化や分類をすることができるからすばらしいのだと考える。そして、いったん脳が損傷すれば、人間は高尚な領域から、人間的とすらもはやいえぬ、低い「具体性」の泥沼へほうり出されると考えるのである。もし人間が「抽象的、範疇的態度」(ゴールドスタイン)、あるいは「命題的な思考力」(ジャクソン)を失ってしまうなら、とりもなおさず、人間以下となり、重要性もなければ興味の対象にもならない、というわけである。
 これは逆だと私は考える。具体性こそが基本である。現実を生き生きとさせ、「リアル」たらしめ、個人的に意味のあるものにするのは「具体性」なのである。もし「具体性」が失われたなら、すべては失われる。「妻を帽子とまちがえた男」のPの場合がそうである。彼は反ゴールドスタイン式に「具体性」から転落し、「抽象性」へと陥ってしまったのだ。
(297)

物語に飢えているんです」と祖母は言った。幸いにも、祖母は物語を読んで聞かせることが好きで、良い声で朗読してくれたので、レベッカは夢中になった。物語だけでなく詩も読んでもらった。彼女は物語に飢え、物語を必要としていた。物語は必要な栄養であり、現実を知らせてくれるものだった。自然は美しいが寡黙である。それでは不十分だった。彼女が必要としていたのは、ことばによるイメージで表現される世界だった。(304)

 ごく幼い子供たちは、物語が好きでそれを聞きたがる。一般的な概念や範例を理解する力はまだないうちから、物語として示される複雑なことがらは理解することができる。世界とはどういうものなのかを子供に教えるのは、「物語的な」あるいは「象徴的な」力なのである。象徴とか物語をとおして具体的な現実が表現されるからである。抽象的な思考などまだなんの役にも立たないころから、それはおこなわれている。子供たちは、ユークリッドを理解するより先に聖書を理解する。それは聖書がより単純だから(おそらくその逆だが)ではなく、聖書が象徴をもちいた物語として語られているからである。(312)

彼は一九五四年に出版された、全九巻からなる膨大な『グローブ音楽・音楽家事典』を暗記していた。まさしく生きたグローブ事典だったのである。父親は年をとって病気がちになり、歌手としてはもう表だった活動ができず、ほとんど家にいるようになった。彼は三十歳になる息子をそばにおいて、たくさんの声楽のレコードをかけ、楽譜を全部だしてきて次から次へと歌ってすごした。彼らがもっとも密接なつながりを感じたのは、このようなときであった。父は、グローブ事典を息子に読んで聞かせた。六千ページ全部をである。父が読むとともにそれは、読み書きこそできなかったが無限に記憶できる息子の大脳皮質に記憶されたのである。その後、グローブ事典を思い出すたびに、父親の声が聞こえ、彼は胸がいっぱいになるのだった。(320-1)

具体的に言おう、いったいホセにはどんな未来があるのだろうか? 本来の彼自身をそのまま保って、かつそれを生かす場が、この社会にあるのだろうか?
 彼は植物がたいへん好きで、それにたいして優れた眼をもっているから、植物や薬草の研究用の図版を描くことができるのではないだろうか。動物学や解剖学の本の挿絵画家になるのはどうだろう〔略〕。あるいは科学探検に同行して、めずらしい標本の絵を描くことができるのではないか〔略〕。目の前の物にたいする彼のあの純粋な集中力が、それには理想的ではないだろうか。〔略〕このようなことは、人々の役に立つばかりでなく、彼自身にとっても楽しいことである。彼は能力をもっていたのである。だがひじょうに理解のある人が彼を雇い、手段をあたえて指導してくれなければ、彼は何ひとつできないだろう。そのような機会がなければ、他の多くの自閉症の者とおなじように、州立病品の奥まった病棟で無為な日々を送ることになるだろう。
(390-2)


@研究室

by no828 | 2016-03-15 20:11 | 人+本=体


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