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思索の森と空の群青

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2016年 05月 10日

結果的に社会主義、共産主義の進出を食い止めるという機能を果たした——島田裕巳『創価学会』

結果的に社会主義、共産主義の進出を食い止めるという機能を果たした——島田裕巳『創価学会』_c0131823_21113281.jpg島田裕巳『創価学会』新潮社(新潮新書)、2004年。70(992)


 版元

 2015年に残してきた本(あと5冊)


 宗教一般への関心から手に取りました。大学時代の友人に信者がいて、当時割と突っ込んだ話をしたことを思い出しながら読みました。

 現状を歴史的・構造的に把握するための枠組みが提供されているように思います。本書で示された枠組みに依拠すると現状がそれほど無理なく理解できるのではないか、ということです。


 都市の下層階級が、創価学会や他の新宗教教団に吸収されなかったとしたら、彼らは、都市の周辺に形成されたスラムに流れ着いていたことであろう。スラムには、社会主義や共産主義の革命を志向する勢力が進出し、下層階級を組織化していく。そうなれば、革命運動が盛んになり、日本においても、社会主義、ないしは共産主義の革命が起こったかもしれない。実際、一九六〇年には大規模な反安保の運動が盛り上がりをみせ、六〇年代後半には学生運動が隆盛を極めた。そうした動きに革命運動が呼応すれば、大規模な騒乱が起こり、それが革命へと発展した可能性がなかったとは言えないだろう。
 そうした状況のなかで、創価学会の存在は、日本社会の権力者、支配政党にとってはむしろ好ましい存在だったのではないか。〔略〕創価学会は、労働運動の間隙をつくことで、結果的に社会主義、共産主義の進出を食い止めるという機能を果たした。だからこそ、左翼陣営は創価学会の急成長を警戒せざるを得なかった。逆にこの段階では、保守陣営からは積極的な創価学会批判は展開されなかったのである。
(89-90)

 一九六〇年は、安保改定阻止の闘争が盛り上がりを見せた年だが、創価学会は、基本的に賛成、反対、どちらの立場にも立たず、事態を傍観した。この時点でも、創価学会は、保守陣営にとって好ましい姿勢を示したことになる。(94)

創価学会の会員となったのは、高度経済成長の波に乗って農村から都会へと出てきた人間たちだったが、その時点で農村に残った人間に利益誘導という政治的な救いの手を差し伸べようとしたのが田中角栄であり、田中派であった。つまり、創価学会=公明党と田中派とは、元々は同じ対象を支持者として取り込んでいったのである。(97)


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 一九八九年末で、日蓮正宗の信者の数で一千七百八十四万人にも及んでいた。それが、二〇〇一年末では、三十六万人となっている。ということは、創価学会の会員数は、一千七百八十四万人から三十六万人を引いた一千七百四十八万人であったことになる。日本の総人口が一億二千六百九十三万人だから、およそ七人に一人は創価学会員である可能性がある。宗教団体のなかで、創価学会員の数は飛びぬけて多いのである。(15)

牧口〔常三郎〕は、教育の目的は児童の幸福にあるとし、幸福を価値の獲得としてとらえた。西欧の哲学の伝統においては、一般に普遍的な価値を真善美(それに聖が加えられることもある)としてとらえるが、彼はそれを踏まえ、価値を美利善の三つに分類し直した。つまり、真(真理)の代わりに、利(利益)が強調されたのであって、その思想は現実主義的なものであった。この点は、戸田城聖が戦後に、現世利益の実現を強調したところに結びついていく。(33)

悪人を罰するくらいの力をもっていない神には、善を保護する力などなく、罰するだけの力があるかどうかを、宗教の価値の基準として用いるべきだというのである。〔/〕要するに、価値のある宗教は、それを信仰する者に利益をもたらし、逆に、その信仰に逆らう者には罰を下すものでなければならないと考えられたわけである。(34)

現在の創価学会は、首相の靖国神社参拝に反対の姿勢をとっているが、それは牧口以来一貫しているとは言えない(38)

 創価学会が勢力を拡大したのは、まさにこの高度経済成長の時代にほかならなかった。敗戦による復興から成長へとむかうなかで、小規模の宗教団体にすぎなかった創価学会は、折伏大行進の号令のもと、強力な布教活動を展開することで巨大教団への道を歩み始めたのである。(57)

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都市に出てきたばかりの人間たちの受け皿となったのが創価学会だった。(61)

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都市の下層に組み込まれた人間たちは、慣れない都市において、豊かな生活を実現したいと強く願っていた。創価学会をはじめとする日蓮宗、法華系の教団は、その期待にこたえようとしたのである。(62)

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創価学会が、今でも農村部より都市部、とくにそのなかでも庶民の集まる下町で強いのはまさにそのせいである。(62-3)

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創価学会には、先祖供養の要素は希薄なのである。〔/〕そこには、創価学会の会員たちの出自がかかわっていた。彼らは農村部から都市部へ出て行く際に、実家にあった仏壇をたずさえてはこなかった。そのなかの大半は、祭祀権をもたない次、三男だったからである。彼らには祀る祖先がなかった。それは、彼らが、実家で実践されてきた伝統的な先祖供養から切り離されたことを意味する。そうであるからこそ、祖先の霊を中心とした霊信仰に関心をいだかなかったのである。(65-6)

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創価学会員の場合には、亡くなっても日蓮正宗の僧侶に葬儀を営んでもらうことができ、生家の信仰へ逆戻りする必要はなかった。それは、信仰を継続させることにつながる。(67)

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日本の労働組合は企業別組合を特徴としており、労働運動の恩恵にあずかることができるのは、大企業に就職していた労働者たちだけだった。したがって、大企業の組合に所属していない未組織の労働者は、組合運動にすら吸収されなかった。〔/〕その間隙をついたのが創価学会であった。創価学会は、都市部に出てきたものの、労働運動には吸収されなかった人間を入信させるのに成功した。(88)


宗教団体である創価学会が政治の世界に踏み出していったのも、そこには宗教的な目的があったからである。(86)

 創価学会員の子弟は、修学旅行などで神仏仏閣を訪れた際には、神社の鳥居や寺院の山門を潜ろうとはせず、そうした施設で礼拝をしようとはしない。(148)

創価学会には会費の制度が存在しない。(162)


@研究室

by no828 | 2016-05-10 21:27 | 人+本=体


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