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思索の森と空の群青

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2016年 05月 21日

「なんでそんなことをしなきゃならないのか分からない」という頑固で——橋本治『バカになったか、日本人』

「なんでそんなことをしなきゃならないのか分からない」という頑固で——橋本治『バカになったか、日本人』_c0131823_1519423.jpg橋本治『バカになったか、日本人』集英社、2014年。74(996)


 版元

 2015年に残してきた本(あと1冊)


 橋本治先生の“時評集”と言ってよいでしょう。東北地方太平洋沖地震後の原発事故を含む東日本大震災に関する文章が多く集められています。とくに、政治のあり方について、民主主義のあり方について論じられています。一人ひとりがちゃんと考えなければならない——メッセージの中心はこれです。

 議論の仕方、議論の封じ込め方も示されています。後者を認識し、前者へつなげていかなくてはならない。そのためには、わからないならわからないと言い、答えなくてよいことには答えない、という態度も必要でしょう。いつの間にか都合よく作り上げられた前提に乗る必要はないのです。


 ロクに考えなくたって「それでよく安全だなんて言えるな」という状態だったりすれば、再稼働反対派は「だから再稼働なんかさせるな」と訴えられますが、原発再稼働派にとっては、それが好都合なのです。どうしてかと言うと、「原発そのものが安全かどうか」という議論から離れて、事態はもう「この原発は安全かどうか」というところに行ってしまっているからです(90.傍点省略)

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「冷静になる」ということは、「余分なことを考えない」ということでもあって、「物を考える」ということは、どうも「悲観的になる」ということでもあるらしい。楽観的になるのだったら、「なにも考えない」ということにしておけばいい。(16)

 原発事故に関して、素人の私はなにも分からない。分かったふりをしてここでなにかを書こうという気にもならない。私が知りたいのは、「大丈夫か? 大丈夫じゃないのか?」ということだけで、多くの人が知りたいのもそのことだろう。(17)

 目の前に大惨事が広がっているというのに、まず金の計算をするなんていうことは、ありうるんだろうか? もういい加減、なにかというと「経済」でソロバンをはじくのはやめないか。(33)

 二〇一四年になっていきなり「地方の再生を!」なんて言ったって手遅れすぎる。日本の経済は「東北の復興なんて無駄!」という本音を持つ官僚によって仕切られている。経済産業省が関心を持つのは、「都市」や「都市に貢献する可能性を持つところ」だけで、「地方」というところはその関心外にある。「地方」を管轄するのは農林水産省で、経済産業省からすれば、「あそこは国に利益をもたらすより、国から補助金を引き出すだけのところだ」になってしまう。経済産業省にすれば、「東北の復興なんか無駄だ」を通り越して、「貧乏な地方なんかみんななくなってしまえばいい!」なんじゃないかと、私は邪推します。(37-8)

東京電力の福島原発は、東京に送るための電気を作っているんだから、東京の人間は福島県に放射性物質を飛散させた事故の「共犯」になる。それで逃げたら、被害に遭った福島県の人達に申し訳ないだろうが。(46)

私が分かっていなかったのは、大震災の被害に遭った人達の胸の内で、それが共有されなければ「分かった」にはならない。実のところ、人の胸の内を分かることが一番体力のいることで、震災発生時の私にはそんなことが出来なかった。(48)

 いつの間にか日本人は、そのくやしさを共有することを忘れてしまった。「どうにもならないこと」に襲われて、それを「無常だ」ですませていてもどうにもならない。そこから立ち上がるモチベーションは、やはり「くやしい」という感情だろう。日本人の前向きさを下から支えていたのは「くやしい」という感情だと私は思っていて、その「くやしさ」を育むような不条理の中で日本人は生きて来た。そして「くやしいと思うことは当たり前である」という認識も育てて来たんだろうと思う。
「くやしい」という思いはそう簡単に消えない。そして、くやしがっているだけではなんにもならない。「くやしさ」から脱することが出来るようななにかをしなければならない。くやしさから脱して、でもくやしさを忘れないというかなり複雑なことをして、それが当たり前のあり方であったはずなのに、いつの間にか忘れられてしまったような気がする。
(52-3)

「落ち着け、落ち着け、落ち着いたらなんとかなる。落ち着いて策を探すんだ」という根本を見失って、「落ち着くと無策が見えちゃうから、慌てたままでいよう」という策はなかろうと思いますね。(66)

「地震と津波で原発が大変だ」と言われてる時期に、「原発でメルトダウンが起こってます」なんてことを言ったら、大パニックになってしまうのに決まっていたから、そこら辺の情報を全部隠して曖昧にしていたというなら、危機管理の上では「正解」であったのかもしれないけれど、それは同時に、情報をコントロールする側の保身行為でもあるから、そういうことをする企業や国家が国民からの信頼を得るなんていうのはむずかしいでしょうね。(70)

東海村に原子炉が完成した時もその記念切手は発行されたんだけど、買いたくなかったので買いに行かなかった。〔略〕「なんで日本に原子炉なんか作るんだろう?」ということが気になって、記念切手を買うと原子炉建設賛成の片棒をかつぐみたいでいやだった(71)

 そういう厄介な原子炉を使って、原子力発電所がなにをやっているのかというと、意外なことにお湯を沸かしているだけなんですね。お湯を沸かして、出来た水蒸気で発電機のタービンを回してる。昔そういうことを聞いて、ポカンとした。今、日本で重大な原発事故が起こって、「確か——」と昔聞いたことを思い出して唖然とした。「ただお湯を沸かすことだけに、そんな危険で厄介なものを使ってたんだ」と思ったら、腰が抜けそうになった。
 水蒸気でタービンを回すのだったら、二百年以上前の蒸気機関から一歩も出ていない。産業革命の時代になかった電力を作り出すのに、その動力が相変わらず水蒸気だと思うと、なにが「進歩」かと思いますわね。
(75)

 どうやら経済産業省は「原発の再稼働は当然」という考え方をしているみたいですね。日本は「初めに結論ありき」の国だから、東大出のゆるがない官僚が「こうだ」と決めてしまった以上、いずれ「再稼働」ということを明白に言ってくるんでしょうが。〔略〕
「初めに結論ありき」の国では、危機対策が中途半端にしか出来ません。なにしろ初めに「結論」と言う形で全体像を想定しちゃっているんだから、その範囲を超えた事態になると、もうなんともならない。危機に直面した現場で体を張っている人にすべてをまかせるしかなくなってしまう。「まかせる」ならまだいい表現だけど、実態は「丸投げ」に近くなる。
「初めに結論ありき」の国では、まともな異議が提出出来ない。〔略〕「これを受け入れるとめんどくさいことになるな」というのが分かった場合、放っとかれる。〔略〕「めんどくさい異議」は取り上げなくてもいいようになる。そして、もしそういうことが知れ渡っているから、まともじゃないクレーマーでさえ、「私がへんなことを言う人間だと思って差別されて、私の言うことは取り上げられない」と思い込めるようにもなっている。
(82)

私が言いたい「新しい議論決着のパターン」というのは、「やたらの議論を続出させ、問題の焦点をぼかし、その結果、二者択一に持ち込む——そうして、“ああ、ひと段落ついた”と思って忘れてしまう」です。(97.傍点省略)

多くの人は、「新聞はむずかしい」とも言わずに、当たり前の顔をして新聞を読んでいる——そういうことを考えて、「俺はそんなに頭が悪いんだろうか?」と思った。そして、新聞はろくに読めないがへんな風に頭が働く私は閃いた——「人が新聞を理解しながら読んでいるのは、本当か?」〔略〕〔/〕日本人の多くは、「分かろう」と思って新聞を読んでいるのではないかもしれない。日本人の多くは、理解力や読解力によってではなくて、「分からなくても平気で読み続けられる持久力」によって、新聞を読んでいるのではないかと、そう思った。
 なんか「すごい発見をした」という気になって、それを二、三の人間に言ってみたら、言われた方は絶句していた。「なにメチャクチャなこと言ってんだ」ではなく、「そうかもしれない——」の一言を残して
(108)

「おバカブーム」は多くの人に癒しと救いを与えた。そのことは実に大きな功績だが、「おバカブーム」の問題点は、その後に「バカでもいいんだ」という知能の空白状態を作り出してしまったことにある(163)

 重要なのは、〔略〕「自民党でいいか」と思って日本人が平気で自民党に政権を預けていた時代が終わってしまったということだ。つまり、「他人まかせでよかった時代」が終わったということだけど。(180)

 それでは国民は、憲法改正をどのように考えているのだろうか? 考えられる選択肢は、「改正したほうがいい」「絶対反対」と「よく分からない」の三つだろうが、そこに至る前に「なんでそれを考えなければいけないのだろう?」という気分が大きく立ちふさがっているような気がする。憲法改正に関する考え方で一番大きいのは、「問われれば考えてもみるが、今なぜそれを考えなければいけないのかがよく分からない」なのではないかと思う。(197)

私はあることに気がついた。それは特定秘密保護法の「性質」というべきもので、つまるところ日本国政府は、国民が余分なことを言うのが嫌いなのだ。「政治のことは私たち専門家に任せて、国民は余分な口出しをせずに黙っていればいいのです」という考え方が、特定秘密保護法を提出する人たちの中にあるのだ。もちろん、そんなことを言ったって、「そんなことはありません」という丁寧な答えが返ってくるだけだと知ってはいるけれど。〔略〕〔/〕「俺たちが決めるんだから、お前たちは黙ってろ」と言えば暴力的な独裁になるが、「私たちが決めますから、どうか余分な心配をなさらないで下さい」と言えば、これは「民意を汲んだ親切な政治」にもなる。実際に親切かどうかは分からないが、日本の政治が「余分な発言」を嫌うのは確かなようにも思えた。(208-9)

一頃、与党と野党の大連立という話もあって、「そんなことをして政党の別というのはどうなるの?」と思ったけれど、「政治は身内によって運営される」という考え方に従えば、大連立というものは「みんなが身内になればなんの問題もなくなる」というもので、政治の世界で「身内」というものは、「身内になってしまえば反対の声が起こる余地のない集団」であり、「身内なら、話せば分かる」ということが信じられるという、特別な集団であるらしい(211-2)

 自民党草案には「自分達が憲法を変えて、その憲法に国民を従わせる」という姿勢が明確にあって、だからこそ「国民の基本的人権」を保障する現行憲法の第九十七条が、自民党草案では丸ごと削除されている。「そこが一番の大問題だ」と言っても、そういう抽象的な総論は今の日本人にはピンと来ないのだろう。そこを突つき出すと、「基本的人権とはなにか」という、今の日本人〔に〕とってはむずかしすぎる話になってしまう。〔/〕だったら、「憲法改正なんて知らない」の無関心のままでいるのが一番いい。知らないまま、憲法改正の国民投票に「NO」の一票を投じればいい。なにしろ、今の日本人には「議論の仕方」が分からなくて、それをいいことにして、憲法を改正したがる人間は「焦点の合わない説明」をいくらでも展開するはずなのだから。一番重要なのは、「なんでそんなことをしなきゃならないのか分からない」という頑固でバカな姿勢を貫くことだろう。
 私は、なんで憲法を改正しなきゃいけないのかが、分かりません。
(227)


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by no828 | 2016-05-21 15:41 | 人+本=体


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