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思索の森と空の群青

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2017年 04月 20日

実感と、それを全部はずしたところと、その両方から攻めていかないと駄目だと思います——吉本隆明・大塚英志『だいたいで、いいじゃない。』

 吉本隆明・大塚英志『だいたいで、いいじゃない。』文藝春秋、2000年。40(1037)


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 吉本隆明と大塚英志の対談集。倫理をどう作りあげていくか、というところに少なくともひとつの焦点が当たっていたように思います。

(134)大塚 そういう弱いから殺しにかかってくる相手に対して、弱さを絶えず根拠にするっていうのが、すごく難しいわけです。ガンジーの無抵抗主義じゃないけど、つまり戦車の前に座ったときに、向こうにそこで戦車を進めるためらいがあればいいんだけれども、でもガンジーが座ってても、全然ためらわないで戦車でひき殺せちゃう。そういうディスコミュニケーションが、今あるんじゃないかと思います。逆に言えば、そこまでしないと強弱をはっきりさせられないぐらいに、強い側の言葉が追い詰められてるみたいなところがひとつある。

(136)大塚 弱い者の言葉っていうか、強者の言葉に対峙できるような弱者の側の新しいディスコースっていうか、そういうのを上手く作り出さないと駄目だと思うんです。

(22)大塚 彼らが〔『エヴァンゲリオン』で〕傷ついていくのは、もっぱら彼らの内面的な葛藤においてなんですね。つまり幼い頃に母親と複雑な関係があったり、父親との屈折した関係があって、そういうことで傷ついていくんであって、「戦争」をめぐって傷ついていくわけない。〔略〕あくまでも傷ついているのは敵との戦いにおいてではなくて、内面的なものでいわば自滅していくように傷ついていく。そういう意味で「敵」は不必要なんです。

(36-7)吉本 神戸の少年Aの首切り事件でもそうで、これを病的に犯罪として見るのも間違いだし、少年をカウンセリングと薬で治していくとか、医療少年院に入れるなんて考え方はまったく間違いじゃないか。こういうのは人間の子供の持っている本来的な性質、性格の中に全部入ってるんだというところで包括したいというのが、僕の願望の中にあるんです。
 僕らの年代でも、僕の昔の仲間で一九九二年に亡くなった作家の井上光晴なんて、戦争中は僕と同じで勤皇少年なんです。天皇は神聖にしてとか、天皇は生き神様だっていうのがいちばんの絶対感情とすれば、それは命と取り替えやすいというのが僕ら勤皇少年の特徴でね。それで敗戦となったら、すぐに共産党に転換できたんですよ。どうしてできたかっていうと、両方ともベースを言えば、農本的なんですよね。農村の貧農の層の困っているところを見て、見かねて俺はやるんだというのが戦争中までの右翼の性質なんです。農本的心性からいくと、そういう勤皇少年が翌日から日本共産党の主張に同化できたっていう根拠はたしかにあるんです。僕らはそこを理解することはできる。実感があるんです。

(49)吉本 僕がいちばん固執するのは、じゃあたとえば子供を殺された親が「もう俺は我慢がならねえから、殺したほうの子供を殺しちゃう」って言って、親がどっかで待ち伏せして、刺しちゃったとか、僕はそれについては肯定的なんですよ。

(74)大塚 自己啓発セミナーじゃだめなんですよ。自己啓発セミナーでいいというのは、物作る人間にとっては判断停止と同じだもの。

(98)吉本 消費っていうのは時間と空間をずらした生産なんだという概念をつくるわけです。

(223)大塚 さっきの大江〔健三郎〕さんのことで言えば、大江さんの言説に対しては正論で論破できる。でも正論で論破しきれない部分がいまの吉本さんにはある。佐川一政を糸口に、彼を差別する云々ではなく、正直なところ人を殺して食べちゃった人間が側にいたら嫌だなという実感、それはどんなにモラリストでも人権主義者でも持ってしまう。その上でなお、人を殺した人間といかに関わりうるか、あるいは関わりえないか、という倫理なり人権意識を作らなくてはいけない、ということですよね。
吉本 はい。
大塚 すごく大事なことを言っていただいたと思います。

(228)大塚 日常の実感からもう一度思想とか言葉を組み立て直す。そういうところにおられるような気がします。
吉本 そこらがすごく気になっているんでしょうね。実感をはずすと、元来人間には出来ないことを人に要求してしまうことがあるんじゃないか。実感と、それを全部はずしたところと、その両方から攻めていかないと駄目だと思います。
 文学書に凝った若い時代に親父から、最近のお前は覇気がなくなったなと言われたことがあって、確かにそうだなと思った経験があるんです。今度は、お前の言うことは段々曖昧になってきた、と言われると(笑)、そうかもしれないなという気がするんです。〔略〕
 だから、これは自分の場所、それもあり得る極端な場所というのを二つ選んでよく考えないと間違えることになるぞ、と思っています。

(239)吉本 頭でやっていると、人の本を読んでも多少の違いはあれ、結局は同じようなことを言っているなと思ってしまう。だけど僕らは、同じ事を言うためにだって違う表現は無限にあるんだと思っているわけです。だから僕らのほうがもつんです。

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(15)吉本 『エヴァンゲリオン』の場合ですと、戦闘あるいは戦争ということはもう昔の話、つまり古典的な話であって、倫理も肯定もへちまもない、大っぴらに描いている感じがするんですね。主人公たちのためらいとか弱さとかの中には、戦争、戦闘行為、あるいは殺し合いに対するいろんな思いがよく出ているんだけど、戦闘場面自体を持ってくるとそうじゃなくて、たいへん大っぴらに肯定的に描かれている。そこのところは『ガンダム』とちょっと違うのかなと思います。

(17)大塚 戦争をしないという価値観を選択した国が、でもエンターテインメントとして戦争を描いていくという矛盾が、たとえば映画の『ゴジラ』(一九五四年、本多猪四郎監督)でも、アニメの『宇宙戦艦ヤマト』(一九七七年よりシリーズ化、松本零士・舛田利雄ほか監督)の中にでも、分裂としてあらわれてくる。

(21)大塚 戦争への想像力が、是非という倫理的な方向にではなく、有事を前提にしてその細部を埋めていく方向に向かうというのは、この国の現時点での戦争観とおたく的想像力が妙に一致する点です。じゃあなんでそんなことになっちゃうのかというと、戦争への想像力が実は内側の方に一方的に作用しているんじゃないかという気がします。

(53)大塚 無倫理を肯定するのではなく無倫理を包括するような倫理を探すんだ、というところにきちんと視線を向けるんだということをはっきりさせておかないと、何故、人を殺しちゃいけないんだという若い子の問いを全面的に許容することになってしまいます。

(56)大塚 大日本産婆会というのが戦後GHQに解体させられて、病院で産みなさいということになって、それが実際に普及したのは昭和三十年代で、僕たちの母親っていうのは、育児書とかを読んで育児をした最初の母親たちなんですね。そういう意味で、宮崎勤も、僕も、宮台〔真司〕も、いわばそういう母親たちに育てられたんです。
 もう一方で宮崎勤がすごく興味深いのは、要するにあきる野市五日市の彼が生まれた地区に残っていた一種のフォークロアなんですけど、その地区は主に農業と林業をやっていた。夫婦共々働かなきゃいけないんで、子供の面倒を見るのには、子守に出すんです。そのときに、これは非常にデリケートな言い方になるんだけども、身体が不自由だったりとか、年をとってきたりとか、そういう人たちに子供の育児を任せるケースというのが多かったんですよ。実際宮崎勤は、そういう形態で育てられた最後の世代なんです。具体的に言えば、宮崎勤を幼児期に面倒見てた人というのは、情緒障害で、かつ身体が不自由な男性、宮崎家とは全然姻戚関係はないんだけどもそういう人を宮崎家は一時期居候させて、その人が宮崎勤のいわば母親代わりになっていた。

(57)大塚 宮崎勤を考えるうえで母親というモチーフは非常に重要で、たまに彼も、公判の中で生の言葉を語った感じがするときもあるんですけど、その一つは、たとえば女の子たちを殺す過程で、甘い感じがしたというんですね。これは芹沢俊介さんが非常にこだわっておられるところですけど、甘い感じがして、子供の頃に帰った気がしたんだけども、そのとき女の子が、たとえばあんたなんか嫌いとか、おそらくまあ宮崎がなにかの性的な振る舞いに出たのか、その理由を彼は語らないんだけれども、あるいはたんに機嫌が悪くなったのか、とにかく女の子がぐずり出すわけです。そうしたときに、彼は非常に拒まれた感じがして、その拒まれた感じが、彼の殺意に転化する、と。このプロセスは比較的彼は正直に語ったんじゃないのかなと思っているわけです。つまり母親から切断されたところで出てくる怒りみたいなことですよね。

(151)吉本 人間の脳よりも先に自然の歴史はあったんだというのを認めるのが「唯物論」だと、こう〔レーニンは〕言ってるわけですよね。

@研究室


by no828 | 2017-04-20 18:21 | 人+本=体


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