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思索の森と空の群青

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2017年 06月 10日

プラグマティックな解決をあえて提起しない。プラグマティックな意味で考えると、外に出られないからです。機能よりも論理を大事にする——的場昭弘・佐藤優『復権するマルクス』

 的場昭弘・佐藤優『復権するマルクス——戦争と恐慌の時代に』角川書店(角川新書)、2016年。56(1054)

 単行本は『国家の危機』として2011年にKKベストセラーズ

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 最後の引用文に背中を押された心地がしました。どこかで考えが変わるかもしれませんが、しばらくはこの姿勢で行きます。

 本書で指摘されていた現象にしろ、解説・展開されていた思考様式にしろ、現在との接点を感じます。思考様式については、いまもまだかつてのそれから抜け出せていないところがあるということです。それが問題かどうかはさておき、新たな思考様式を獲得したいと(長らく)思っています。

33)的場 官僚の形態というのは、はっきり言ってメリトクラシーです。努力してコツコツ勉強すれば、どのような者であろうと官僚になれる。この点において、形式的には開かれているわけです。ただ、一度官僚になると簡単にやめないことで、かつての絶対王政下のプロイセンにいた官僚たちと同じように、特権団体を形成していく。ここに閉鎖性と開放性とのズレがあります。

38-9)佐藤 ヘーゲルの発想で重要なのは、僕はやはり「受肉」だと思います。理念が具体的な形を取る。結局は、一時期、ヘーゲル自身もナポレオンを「世界精神」と誤認したわけですよね。必ず何らかの形で人の形を取らないといけない。この問題があるわけですよね。

44-5)的場 プルードンはその後、基本的に経済にあまり興味をもたないで、言わば人間の改善によって社会を変えようということを考えています。その問題設定は、非常に楽観的なのですが、人間というものに対する彼なりの信頼と、人間の陶冶が彼の関心事です。ここがプルードンの積極的に評価すべき側面です。〔略〕プルードンが、人間をどうするかという問題を議論していくのに対して、マルクスは、やはり人間よりも組織というかシステムのほうに関心がある。

46)的場 プルードンは重要な点を衝いている。経済学の議論では、人間を変革できないという点です。

49)的場 独断を変えるためには、他人と議論することが必要である。他人の議論が入ることで、自らが他人の議論とかみ合うように変わるわけです。これが民主化するということです。

66-7)的場 自民党政権が何十年ももってきたというのは、基本的に国民が政治に関心をもたなかったからだと言えます。国民は基本的に経済で忙しく、どんな政治をしようと、経済がうまくいきさえすれば関心をもたなくてもよかった。ところが、経済がうまくいかなくなったとき初めて日本人が政治に関心をもち始めた。つまり、政治が変わらなければ経済が変わらないと思ったわけです。

72)佐藤 民意をどのようにして、代表民主政のもとで担保するかというのは本当に難しい。四二〇人の国会議員を四一九人にしても民意は変わらないというように考えるなら、それを一つ一つ減らしていけば、最後は一人によって民意は代表できるはずです。それこそカール・シュミットのいう大統領の独裁みたいな世界になっていく。

88)佐藤 プライベートというのはそもそもラテン語のプリーバーレから来ていますから、「奪う」ということですね、囲い込んで。
的場 自分がそれぞれもっていて、自分のものを取り合う、お互いのものを取り合うという人間関係。アソシアシオンは逆に自分のものを与え合うという関係です。アソシアシオンという言葉は、むしろマルクスよりは、フランスの社会主義者たちが盛んに使っていた言葉です。
佐藤 それ自体はそもそも「使徒行伝」です。「使徒行伝」のパウロの長い説教の最後のところに、「イエスが我々に教えてくださったように、受けるよりは与えるほうが幸いなのです」と、この考え方ですよね。

176)的場 大学院はいま短大になっているんです。わずか二年でしょう。例えば、経済学部を卒業した人間が法科の大学院に来たりします。これは法科の短大生です。

178)佐藤 壺があるとしましょう。壺というのは、時代が経ったら割れてしまいますしかし、壺の中には光が入っている。割れる壺をいくら守ろうとしても、それはダメです。ところが、重要なのは、その壺が割れた瞬間にスッと光をつかんでしまって、新しい壺に入れることなんです。
 我々が社会主義について扱うということは、そういうことではないかと思います。社会主義という思想の中には人類の英知があるし、肯定的なものがある。それをどのようにして次の壺に入れていくかという作業です。これがまさにアイザック・ルリアなどのカバラの考え方です。

264)的場 労働価値説とはいったい何なのかということです。価値を生み出すものがなぜ労働でなければいけないのかという問題、この問いが出てこなくなります。

280)佐藤 それによって世の中を変えようとする人間が出てくるかもしれない。あるいは、逆に、労働力商品化されているということを、「ああ、そういう理屈なのか、ならば搾取する側に回らない限り、いいことはない」と思い、他者を搾取することに生きがいを感じる人間が出てくるかもしれない。

281)的場 マルクスはあくまで一九世紀の人間なので、いまの私たちが陥っているようなプラグマティックな世界の発想の論理とは違った発想をしています。日本でも少なくとも一九六〇、七〇年までは大学の中に残っていました。この発想は、いったん自分を社会の外に置いて、この社会がどのように機能するかを理論的にしっかりとつかんでいく。いったん現在の社会の論理の外に出るということです。社会の機能が、どのように私たちを不幸に陥れているかを分析していき、では、どんな可能性があるのかを分析する。しかし、そのためにプラグマティックな解決をあえて提起しない。プラグマティックな意味で考えると、外に出られないからです。機能よりも論理を大事にするということです。これが批判という意味です。
 かつての学問はみんなそうであったはずです。提言していないということが、ある意味で一つの大きな提言なんです。奇しくも宇野さんは、言論と政策を分けましたが、このような形式に慣れ親しんだ時代においては、政策という問題はそれ自体問題にならない。

@研究室


by no828 | 2017-06-10 16:03 | 人+本=体


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