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思索の森と空の群青

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2017年 07月 26日

危険なのはあくまで軽率な思いこみや先入見なのであって、意見そのものではない——森本哲郎『「私」のいる文章』

 森本哲郎『「私」のいる文章』新潮社(新潮文庫)、1988年。65(1063)

 版元ウェブサイトなし|単行本は1979年にダイヤモンド社

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 27年間、新聞記者として「私」のいない——「私」を抑制した——客観的文章を書き続けた著者は、それに我慢できなくなりました。しかし、「私」を全面展開できる文章を書こうとした途端、その難しさに直面します。

 引用にもある「思ったとおりに書け」という作文指導は何も指導していないに等しいでしょう。わたしもそうした指導を受けました。困惑したことを記憶しています。

16)ぼくのいう「私」のいる文章というのは、〔略〕「私は……と思う」という形の文章、すなわち「私」が考えたり、感じたりしたことをつづった文章のことであって、その考えや感情がどれほど自分にとって明晰であり、どれほどそれを明晰に叙述しえたと思っても、あいまいさを拭い去ることはできないのだ。

17) 文章を書くという作業は、何かについて書くことである。「私」のいる文章とは、「私」について書くことだ。そこでぼくは、新聞記者の習性によって、まず「私」を取材しようと思った。自分を取材して書けばいいと思った。ところが自分自身を取材するのは、たとえば殺人事件について、あるいは火事について、あるいはだれか自分以外の人物について取材することよりも、はるかにむずかしいということに気がついたのだ。

18-9) ぼくは小学生のころ、作文の時間に先生に教わった。「思ったとおりに書け」と。なるほど、作文とは、「思ったことを書く」ことである。けれど、この教え方には問題がある。自分が何を思っているのか、それがだいたい、はっきりしていないからである。自分の思っていることが、つねに自分にはっきりしているなら世話はない。だから、「私」のいる文章を書くためにいちばんかんじんなことは、何を、いつ、どこで、どのように思うのか、ということなのである。いや、それだけでは足りない。さらに、なぜ、そう思うのか、を加えねばなるまい。 ※傍点省略

27)人間は生きるために環境に適応しなければならないのだが、ひとたび環境に適応してしまうと、こんどは環境にすっかり慣れてしまったということが、逆に生きるという実感を失わせてしまう。〔略〕都会というのは、人間を自然から守る装置が幾重にも張りめぐらされている場所のことである。〔略〕自然に対する抵抗感、すなわち適応への努力〔略〕がなくなれば、人間は何かべつのものをそれに代えなければならない。そうしないと、〔略〕〈退屈のあまり〉病気になったり、以上な行動をはじめたりして、あげくの果て、死んでしまいかねないからだ。都会の刺激というのは、その代替物なのである。〔略〕文化とか、人間がつくり出すさまざまな情報といったものは、人間が生きるため、抵抗するための擬似自然なのである。 ※傍点省略

41) 「取材」とは、この世の出来事を自分なりに知ろうとすることである。 ※傍点省略

54)ぼくらはこうした〔価値判断をめぐる〕議論によって、ふだん自分が抱いている価値観の根拠をあらためて反省させられる、そういう意味を持っているのである。相手に向かって自分の価値判断を説くときには、その根拠を明示しなければ相手は納得しない。「彼女はすてきだ」という場合には、そのすてきな理由を挙げなければなるまい。こうして、一見、無意味に思える第三の議論は、ぼくらに価値判断の根拠を反省させるという収穫をもたらす。そして同時に、相手の価値観についての新たな発見と認識を与えてくれる。

79) 取材とは、既成のイメージがべつの新しいイメージに生まれかわる、その道行きのことなのである。

80-1) アメリカのジャーナリスト、ジョン・ガンサー『アフリカの内幕』を書いたのち、アフリカを再訪したときのことだ。彼はアフリカのある国の青年にこう詰問された。
あなたは私たちの国にたった三日間滞在しただけで、よくまあ、われわれの国について報告が書けるものですね
 すると、ガンサーはこう答えた。
そうです。それだから書けるのです。もし私があなたの国に三日ではなく、三年間滞在していたら、私は絶対に記事は書けなかったでしょう」〔略〕
 なぜなのか?
 端的にいうと、ものを書くということは、あきらめるということだからだ。何をあきらめるのか? それ以上知ろうとすることをあきらめるのである。何かについて知ろうとすれば、きりがない。〔略〕だから、どこかであきらめなければならぬ。あきらめて、その時点で、自分なりの結論を下さなければならない。それが、ものを書く、ということなのである。 ※傍点省略

105)ガンサーは後進のジャーナリストに対して、ただひとこと、「書きとめておけ」と説いている。〔略〕その場合、どんな紙を使うにしろ、けっして紙の裏表にメモを取ってはならない、ともいっている。なぜなら、そのメモをあとで整理する場合、どうしようもなくなるからだ。そうしたメモ、数千枚の小さな紙切れを、彼はあとでテーブルの上にひろげて入念に分類する。それを一冊、また一冊とノートに貼ってゆく。

142-3)ジャーナリズムは、まさにそのような「べき」から自由であってこそ、ジャーナリズムたりうるのであり、ジャーナリストは、「ねばならぬ」から離れているからこそ、ジャーナリストたりうるのだと思う。それが言論の自由の本来の意味なのではなかろうか。〔略〕一元的な「べき」のジャーナリズムしか存在しないところに、真のジャーナリズムは成立しない、と私は考える。

146-7) 私は、ジャーナリズムとは、「偏向」の異名だと思っている。偏向していないジャーナリズムなど、ありえない。いや、偏向するからこそ、ジャーナリズムは成立するのである。理由はきわめてかんたんなことで、言論の世界に「絶対的基準」なぞ存在しえないからである。〔略〕事実は無数にある。その無数の事実のなかから、どのような事実を事実としてとり出すか、という段階で、客観的という言葉は意味を失ってしまうのである。なぜなら、その選択はすでに客観的ではありえないからだ。

161)意見というものが、事実の報道をいかにゆがめるものであるか、その例はたくさんあるだろう。だが、危険なのはあくまで軽率な思いこみや先入見なのであって、意見そのものではない。ところが、新聞人は誤った意見を避けようとするあまり、しまいには意見そのものまでを回避するような習慣を身につけてしまったように思う。

165)ジャーナリストの本質とは、たとえ彼がどのように狭い専門領域を受け持つにせよ、つねに批判者であるということである。批判者であることによって、彼は特殊な専門分野を、一般の言論の広場へと解放する。批判者であることによって、彼は取材を担当する個別の分野に普遍の問題を発見する。現代における新聞記者は、現代への質問者なのだ。 ※傍点省略

189)新聞が世論を導くような、また、人びとが新聞の社説をよりどころとするような、さらにいうなら、人びとが新聞にあまりに多くを期待し、そして、新聞がやたらに権威や力を持つような、そういう社会は、まだまだ未成熟な社会だと、ぼくは思う。 ※傍点省略

@研究室


by no828 | 2017-07-26 14:46 | 人+本=体


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