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思索の森と空の群青

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2018年 02月 28日

ちゃんとわからないものを正確にそのまま掬って、ちゃんとわからないままに丁寧にそっと置く、っていうのが一番正しいし、難しい——佐々木中『この熾烈なる無力を』

 佐々木中『この熾烈なる無力を——アナレクタ4』河出書房新社、2012年。35(1102)

 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309245997/

ちゃんとわからないものを正確にそのまま掬って、ちゃんとわからないままに丁寧にそっと置く、っていうのが一番正しいし、難しい——佐々木中『この熾烈なる無力を』_c0131823_21463707.jpg

 はじめて佐々木中を読んだ。以後、続けて佐々木を読むことになる。

 再読できるかどうか、再再読に値するかどうか、という本の選び方を新しく感じた。研究上必要で、一読後もページをめくることになるだろう、という本はもちろんあるが、佐々木の選定の規準はそれよりも鋭利である。

106-7)原発事故の放射線被害はある。そして、あらゆる種類の核兵器と原発は、世界中で、速やかに、完全に、〈廃棄〉されなければならない。あらゆる叡智を傾けて、人類はそちらに向けて「進化」すべきだ。これは後退でも撤退でもない。これは変革であり、新しい世界の開始である。——僕は、こう思います。つまり、こちらに賭けます。そして、みなさんもこちらに賭けて欲しいと、思っています。賭けることに本当は根拠はない。なくてよい。のですが、一応ひとことだけ。もし放射線にはほとんど健康に問題がない、と仮定してつくりあげられたわれわれの未来の最悪の事態と、放射線の被害は甚大であると仮定してつくりあげたわれわれの未来の最悪の事態は、どちらが悲惨でしょう。答えは一つです。それだけです。 ※傍点省略

27)安藤〔礼二〕 確認するまでもないことだけど、哲学はものすごく重要なんですよ。しかし、実際に作品を書き上げるために必要なのは、思考ではなくて言葉なんです。理念ではなくて、「もの」なんです。作品は、「もの」に遭遇して、たった独りで、素手で「もの」に立ち向かわない限り、成立しない。言葉とは広い意味で作品そのもののことを指します。

31-2)安藤〔礼二〕 私の場合は、他者と自己との差異がゼロになってしまうまで、他者の言葉に同化しようと試みます。だから批評というジャンルを選んだのでしょうね。つまり向かい合う他者が必要なんです。いや、他者の存在というよりは、他者の言葉が。他者の言葉にできる限り近づき、他者の言葉を消化し尽くし、自分の言葉に変えてしまう。私にとって、分析することと解釈することと、さらには表現することはほぼ等しい行為なんです。

35)鏡〔明〕 「お前そういうことやってていいのか? 次世代のために我々がエネルギーとか石油とか全部消費しちゃうと困るだろう? 我々は次のことを考えて、それをセーブしなくちゃいけないんだよ」って言うと、「俺たちの前の世代がそんなことをしてくれたなんて一回も思ったことがない。でもなんとかやってきただろう。俺たちがエネルギーを使ったからといって次の世代は次の世代でなんとかするだろう」っていうのがあるんだけど、それもわからなくはないよね

37)佐々木 ミシェル・フーコーが、理論を立てるとか、物を考えるとか、ある視点を作るっていうことは、それだけである種の実践だと言ってます。ゲーテも同じこと言ってますね。それは「創造行為」なわけですから。

38)鏡〔明〕 いまの話で、たぶん書くっていうことは生産性があることだし、実践だっていうのはよくわかるんだけど、じゃあ、読むっていうことの関わりはどうなの? 読むっていうことも実践ってこと? 書かないと実践にはいかないっていうこと?
佐々木 読めないと書けないでしょう。読むっていうことは、どうしても「読み変える」っていうことですよね。

39)佐々木 僕は新しいものを読むよりも、読み返すほうが好きなんです。この本を読むか読まないかはパーッと見て、「読み返せるか?」ってことで決めます。二回目、三回目、四回目を読むために一回目を読むような感じです。

40)鏡〔明〕 わからないで捨てちゃう人たちっていうのは、自分たちの範囲の外になにがあるかに対して興味がない人たちだよね。
佐々木 興味がないのか、恐れているのか、どっちかだと思います。

44-5)鏡〔明〕 しばしば、わからないことっていうのが発した側の未熟さって言われることがある。本人もわかってないからわかんないって。でもそれは本来違うはずなんだよね。
佐々木 違うと思います。
鏡 じゃなきゃ哲学者ってみんな馬鹿だもんね。

45)佐々木 いや、この世でわからないものというのはあんまり多くないと思いますよ。
鏡〔明〕 そうなんだ。
佐々木 でもひと握りかもしれないけど、わからないものというのは確実にあって、そのわからないものをわかりやすくしたら、それは嘘をついていることになります。〔中略〕ちゃんとわからないものを正確にそのまま掬って、ちゃんとわからないままに丁寧にそっと置く、っていうのが一番正しいし、難しい。それを自分ができているかどうか不意にあやしくなってきたけど(笑)。努力はしている、ということです。

46-7)鏡〔明〕 俺、あんまり好きじゃなかったんだけど、『14歳からの哲学』の池田晶子が『ソフィーの世界』の評で、「すごく優しく書いてある。わかりやすく書いてある。だからこれはインチキだ。もしもこの通りならすべての哲学者はみんな馬鹿だ」って書いてて、名言だと思った。わかりやすいっていうこと自体がインチキだって。それはその通りだと思う。

49)ここには実は驚くべき問題がある。全知なる神はイエス・キリストと「同一」でしょう? ならば神はイエスをマリアに身ごもらせた瞬間から、自分自身であるイエス・キリストがあんな殺され方をすることを知っていたはずですよね? 純粋な精神である自分が、汚濁に満ちた(とされていた)物質世界を作り、そこに降りていって自分が作った卑小な者たちに殺される。それによってその人間たちを救おうとする。どうして? なぜわざわざそんなことを? ものすごく不可解な話でしょう。なぜ神はそんなことをされたのか。ただひたすらに愛ゆえなのだ、とキリスト教は説いている。ドラマチックでしょう? だからキリスト教は爆発的に世界中に広がったともいえる。世界を作り、そこに降り立ち、自分の創造した人間に殺されてみせる。 ※傍点省略

82)佐々木 一度読んだだけでは読んだことにはならないテクストを書きたい、という欲望は——僕がそういう読み手だからですが——いつもあるんですね。可能なら再読を再々読を誘うものを書きたい、と。

98)あの日の津波で親きょうだい子ども全部流されてしまった人の3.11と、福島の原発の近くに住んでいて、避難を余儀なくされている人の3.11と、自分の祖父が俺はここに住むって言って聞かないから仕方なく見捨てて来てしまった人の3.11って、同じなんですか。

103)「専門家」ではない、原子力工学なり放射線医学の専門家ではないと判らないと言う。無論、私も専門家ではない。だから語る資格はないのかもしれない。しかし、その「専門家になる」という過程そのものが、洗脳とまで言えば言い過ぎとしても、ある種の盲目を抱え込む過程だとしたら、どうなりますか。何ごとかに、なかば無意識に目をつぶることがその「専門家になる」ということの前提だとしたら、どうなりますか。繰り返します。では何が正しいのか。どちらが正しいのか。判らない。判らないのです。

112)この震災、この災厄、この事態は、どこまでもわれわれの、われわれの恥辱である。われわれの手も汚されているのだということです。想定外という科白が言い訳にすぎなくて、すでにこの程度の地震は起き、起きたらどうなるかということは、ちゃんと調べて資料になっていたわけです。原発がいかに危険か、原発関連の財界、官僚、政治というものが、いかに欺瞞と癒着にまみれたものであったかについても、ずっと研究してきた人がいる。資料もあった、本もあった、でもわれわれはそれを知ろうともしなかった。私も含めて。この国がこういう国だということを、うっすら皆さんもご存じだったでしょう。でも何もしなかった。だからこの事態は、われわれ自身の責任でもあるんです。だから、われわれが変わらなければ何も変わらない。誰かがうまくやってくれるだろう、誰かが変えてくれるだろう、という根性は捨てなくてはならない。 ※下線部は原文傍点

113)そしてまた、ここではっきりさせておかなくてはならないことがある。この恥辱の名において、この災厄はわれわれの責任でもある。それはその通り。だが、このことと、この災厄を招いた、そこに荷担した人びとの責任を問う、ということは、矛盾しません。責任は追及しなくてはなりません。なぜなら、こういう無能と無責任を許して来てしまったわれわれを変えるということこそが、われわれがわれわれの責任をとるということだからです。ならば、われわれの一員である彼らに、われわれの名のもとに、恥辱の名のもとに、責任をとってもらわなくてはならない。逃がしてはいけない。

115)この「圧倒的な現実」とやらを前に、無力じゃなかったものなどないのです。一体「有力」って何ですか。この世界で、もっとも「有力」なのは何ですか。アメリカ軍? あの、ここ数十年世界中で失敗し続けている軍隊、が? いいですか。初めから無力なんですよ。文学とか芸術だけが特別に無力なんじゃない。何だってそういう意味では無力です。何をやっても無力であり、「有力」であることなんてない。これこそが、「現実」なんです。そしてそこで、「俺たちは無力だ!」って言って何もかも全部捨てることができたら、どんなに楽でしょうね。捨てますか。すべてを捨てることなんて、できるんですか。たとえば、文学でも思想でもいい。「この圧倒的な現実に対して、文学は何ができるか」。「思想には何ができるか。何もできない」。そういう事を言う人は、藝術とか思想には「権力」がある、「有力」である、と思っていたということになります。自分がやっていることが特権的に無力だって言い立てることは、……それは、何かおかしいよ。もしかしたら、権力がほしくて有名になりたくて、お金がほしくて、思想とか文学とかやってたということになりませんか。

238)古井〔由吉〕 文学は自閉できないんですよ。言葉は自分のものではないんだから。言葉そのものが開かれているんだから、自閉はありえないのですよ。


@S模原


by no828 | 2018-02-28 21:58 | 人+本=体


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