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思索の森と空の群青

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2018年 03月 12日

その経験が少しでも自分の何かを埋めてくれるかもしれないと最後まで物欲しげにしがみつくことしかできなかった——本谷有希子『自分を好きになる方法』

 本谷有希子『自分を好きになる方法』講談社、2013年。45(1112)


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 リンデの人生の6日間。16歳、28歳、34歳、47歳、3歳、そして63歳のリンデ。日常のあの感覚を忘れずにいるかどうか、が小説家の肝である、と思わせる小説。

19) 「どうしてこんなにリンデの時と違うの?」
 モモに訊かれて、「分からない」とリンデは素直に答えた。自分の番になって、カタリナのストライクやスペアにつられていい点数を出そうと欲を出すと、うまくいかない。ピンを倒してやろうと思うと、まるで誰かがそれをたしなめて、ボールを押し返しているみたいに、レーンの溝へと落ちてしまう。〈ア〉の番だと思って助走の位置に立つと、余計な雑念が霧のように晴れ、集中力が研ぎすまされていくのが分かった。
 信じられないことに、四巡目も黒いチョウチョが〈ア〉のマスを埋めた。「二人いるみたいだね」とスコアボードを指差してカタリナに教えてもらう前から、とっくにリンデも同じことを感じていた。まるでほんとうにリンデと、もう一人の違う誰かが順番に投げているみたいだった。なぜだか〈ア〉の番になり、背筋を伸ばして立つと、聴覚に変化が起きた。周囲のざわめきがスピーカーのボリュームをしぼったように小さくなり、ただ耳に乱暴に押し込まれていたような雑音が、ひとつひとつ聞き取れた。それから、ろうそくの上で揺れている炎の周りに、誰かが手をかざしてしっかりと守ってくれているような気持ちになった。けれど〈リンデ〉の投球になると、澄んでいた思考はいつもどおり鈍く重くなってしまうのだった。

64)それまでの自分はひどく諦めの悪い人間で、何に対しても途中でやめるという決断ができなかった。どんなに読んでいる本がつまらなくても、観始めた映画が退屈でも、その経験が少しでも自分の何かを埋めてくれるかもしれないと最後まで物欲しげにしがみつくことしかできなかった。途中で投げ出した自分を責め、後悔することをいつも恐れていたから。でも、劇場を抜け出したあの日見た景色のお陰で、リンデは新しい自分に出会えた気がした。自分の怖がっていたものがほんとうにちっぽけだったと思った。彼と付き合うようになって、リンデは初めて自分から新しい行動を起こせるようになっていた。今ではつまらないと思ったら、一人でも勇気を出して、映画館を出ることができる。

91) 「あんたは、あれこれ迷い過ぎなのよ。こんなに恵まれているのに満足できないなんて」
 エナはため息をついた。いかにも主婦の憂鬱、という感じのため息。エナはマグカップに口をつけたが、飲む気はないようだった。まるでコーヒーの中にいる誰かに向かって囁くように喋り出した。「最近、よく分かって来たわ。前までは、時間をかけて考えるほどいい結果に辿り着くって信じてたけど、ほんとうはもっと直感でパッと決めちゃったほうが、どんな結果でも納得するんじゃないかって


@S模原


by no828 | 2018-03-12 22:13 | 人+本=体


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