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思索の森と空の群青

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2007年 11月 10日

漱石が読める、のはなぜか

今日は研究室には行かないぞ、という決意のもとにお昼前に起き出す。

ああ、雨だ。と思いながらシャワー、珈琲、漱石、朝食兼昼食、夕方まで再び漱石。

それから本屋に行き、ルイ・アルチュセールとテッサ・モーリス‐スズキを買う。
そこで大学院の先輩と偶然お会いする。「いや、ちょっと哲学書を買いに来まして」。
合計4,444円。何かいいことがあるに違いない。

その後某古本屋へ。

前々から読もうと思っていた

本田由紀『多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで―』NTT出版、2005年。



広井良典『ケアを問いなおす ―<深層の時間>と高齢化社会―』(ちくま新書)、筑摩書房、1997年。

ほかを買う。勉強せねば。


ところで、漱石を読んでいて思ったことがある。
それは「漱石の書いていることが言語的に理解できる」ということであり、その「文章を美しいと感じる」ということであり、翻って「なぜわたしは漱石の書いたものを理解でき、なぜその文章を美しいと感じるのか」ということである。

夏目漱石(本名:金之助)は1867年―1916年に生きた人である。

その時代に生きた人の書いたことが「わかる」ということは、その時代にはすでに「日本語」ができていたということである。
あるいは、漱石の使った言葉が「日本語」になったということである。

明治政府ができたのが1868年である。それが1912年まで続く。
このことと漱石を重ねて考えるならば、おおよそこの時期に「日本語」が作られたと言ってよいであろう。

それはつまり、近代国民国家の成立期に「国語=日本語」が作られたということである。

「文豪」が残した文章が「読める」ということは、こういうことも物語っている。

by no828 | 2007-11-10 20:54 | 日日


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