朝から某先生から頼まれた英訳の仕事をする。
日本語の人名を英語表記するのが面倒であることに改めて気づく。
日本語では漢字で表記されていれば問題ないが、英語ではそれが何と読まれのかが問題となるからである。
この名前は何と読むのだ、この読み方はどっちだ。
それが明らかにならなければ、英語では表記できない。
このことから、漢字の世界はある意味で無音の世界であり、英語の世界は逆に有音の世界であると言えるのかもしれない。
無音から有音への変換はなかなかに困難である。
今日はそれから某卒論生の卒業論文の指導をしたのであった。
「論文」とはそもそもこれこれこういうもので、だからこういうことを書かねばならないのだよ、など、「わたしも偉くなったものだな」と思いながら。
そういえば、今日はくもり。
空に横たわる雲の向こうには、いつもと変わらぬ太陽があるはずである。
明るさが足りないと感じるのは、太陽の光が弱くなっているからではない。
この空気の暗さは、太陽のまなざしを、そして太陽へのまなざしを雲が遮断しているからである。
<わたし>から<あなた>が見えなくなったのは、<あなた>がいなくなったからではないかもしれない。
<わたし>と<あなた>の<あいだ>に何かが介在するようになったからかもしれない。
逆に<わたし>から<あなた>が見えるようになったのは、その<あいだ>に何かが介在するようになったからかもしれない。
こうして書き残す営みは、後者の意味での「何か」でありたい。
と、思った。