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思索の森と空の群青

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2008年 02月 03日

111

早朝、地面にはうっすらと雪。日中は雨。夜は雪も雨も降らなかった。

遅ればせながら今年最初の「人+本=体」。

以下の文献情報の前にある数字は、「今年になって読んだ本の数(ブログを始めてから読んだ本の数)」を意味します。

1(51)  池田晶子『さよならソクラテス』(新潮文庫)、新潮社、2004年。(古書)

著者の早すぎる死。

「しかし、死とは何かを知らない科学に、人を救うことなど実はできはしないのだ。科学にできるのは、わけもわからず生き延ばすことだけなのだ。無理矢理でもなんでもかまわないのだ」(p. 97)。

だからこそ哲学を、というのが筆者のメッセージなのかもしれない。

「人はそれを隠しきれない、出してしまいたくなる。しかし、出すのは恥ずかしい。そこで人は、それを擬装して出す。その名が、『正義』だ。あるいは、『倫理』だ。正義と倫理が、嫉妬の別名なのだ。今や人は、堂々と人を責められる、『けしからん』。嫉妬の怒りは、正義の怒りとなって、世に正当な場所を得ることになるわけなのだ」(p. 103)。

プラトン イデア界なんてものが、いったいどこにあるというのか、それこそこの目に見せてもらいたいですよ。
 ソクラテス どっか別のところにあると思うんだろうな。
 プラトン どっか別のところにあると、自分で思ってんだから、実現しないのは当然ですよ。自分の中にしかないってのに」(p. 252)。


2(52) 諸田玲子『恋ほおずき』(中公文庫)、中央公論新社、2006年。(古書)

時代小説。

「十七で恋をしたとき、江与は、我が身のことしか考えなかった。ただ一途に恋い慕い、なにも目に入らなかった。行く手に夢を思い描いていたからだ。/今は、明日のことなど、なにひとつ頭になかった。たとえひと夜でもいい、二人でいられさえすれば十分である。/あるものをあるがままに受け入れるすべを学んだのは、大人になって賢くなったからか。二度と傷つくまいと身構えているからか。夢を描けないのは哀しいけれど、そのぶん心は平穏である」(pp. 302-303)。

「『わたくしも津田さまのお陰で、どんなことにも目をそむけてはならぬと教えられました。たとえ答えが出なくても、迷いが迷いのままに終わったとしても、真摯に心に問うてみなければなりません』
 寒烏の鳴き声が聞こえた。鳴き声だけで姿は見えない。
 再び歩きはじめた。
 『それにしてもぬかるみだらけだ』
 『平坦な道などありませんね、どこもかしこも』
 『尻餅をつこうが泥まみれになろうが、肚を据えれば怖るるに足らず。二人のことも、おれはそう思っている。江与どのも心に留めておいてもらいたい』
 浅草寺の門前で別れた」(pp. 322-323)。


3(53) 橋本治『日本の行く道』(集英社新書)、集英社、2007年。(新刊) 

「『家の中の殺人』はあり、『学校の中のいじめ』もある。そして、『家の外』であり『学校の外』であるようなところで成立する『不良』だけが、消えて行く。これは、『家か、学校か』の二択だけがあって、『その他』が存在する余地を、子供達が持てないということでもありましょう。私は、『すべての問題はその状況にある』と考えます」(p. 89)。

「・・・実際に訪れてしまった『格差社会』は、そういうものではありません。『あるレベルからはずれたら、もう生きて行きにくくなる』という、そういう『隔差社会』です。/それは、『格差社会』なんかじゃありません。『あるレベルからはずれた人間達なんか知らない』という、オール・オア・ナッシングの世界です。『当人の自主性に任せたんだから、こっちは関係ない』という、我知らずの拒絶が野放しにされた社会です。そこで、『人の孤独』は心の問題ではなく、実生活上の孤立に変わります」(pp. 106-107)。

「『必要か不要かを無視して、“ほしい”と思ったものはどんどん買え。なぜならば、個人消費こそが、景気の動向を左右するのだ』という考え方は、この産業革命以来のあり方をストレートに受け継ぐものです。だから、『もうそんなのいいじゃないか』という成熟した声が、地球の上に生まれたっていいのです」(pp. 224-225)。

「人は『豊かさ』によって自由になり、自由になって『豊かさ』を求め、その結果、『豊かさ』によって翻弄され、『豊かさ』を失います。なにかここには罠があります。・・・『豊かさ』が強くなると、人の方は相対的に弱くなるのです。なぜ弱くなるのかと言えば、『豊かさ』を手に入れた時、人は『豊かさ』を手に入れるために必要とした『あれこれめんどくさいことを考えなければならない』という制約を捨ててしまうからです。人が人であることを成り立たせる思考の『重大な一角』を放棄してしまう・・・」(pp. 251-252)。


4(54) 山崎正和『文明としての教育』(新潮新書)、新潮社、2007年。(新刊)

昭和21年・・・「古い教科書はなんとか残っていたものの、教える人たちは教員としての免許もなければ、教科教育法の知識もない。教師としてはまったくの素人です。にもかかわらず、ただただ教える内容のみにすがるその授業の姿勢は、私たち中学生に強く訴えるものがありました」(p. 13、強調は引用者)。今日の議論は教育内容よりも教育方法に焦点が当たっているという印象を受ける。逆だと思う。

「・・・日本は近代化という世界文明に服従し、それの信託を受けるかぎりにおいて統治をおこない、とりわけ国民の教育に従事していました。その政治形態は後に『戦後民主主義』と呼ばれ、さまざまな毀誉褒貶を浴びたものですが、私にはこれがいまも政治の理想像であり、教育を考える場合の原点であることを告白しておきます」(p. 17)。

「真実はその彼方にあるが、しかし教師もそれを知っているとはかぎらない。したがって、教育とは真実を直接教えるものではなく、既成の知識の誤りをみずから発見させるものである。これがソクラテスの教育の理想でした。平たくいえば、真実にいたるためには自分で考えなければいけないということです」(pp. 31-32)。

室町時代から江戸時代へ。「『忠』というものは仲間うちの信義、外と戦い内と結ぶための倫理観であって、外に開かれたものではありません。この『忠』は集団ごとに成立するので、おのずから争いを引き起こします。しかし、商人の持っている『信』は普遍的で、顔の見えない相手とのあいだでも成り立つ倫理でした」(p. 105)。

「・・・社会の共有財産である言葉をはじめとするさまざまな知識とは、じつはもともと社会のためのものであって、個人のためのものではないと見ることができます。「1+1=2」であれ、万有引力の法則や日本語の文法であれ、知識の歴史的な集積としての文明がまず先にあり、個人はそのなかに生まれ落ちてくるのですから、それに従い、それを分有するのは、人間の権利である以上に義務なのです」(p. 137)。このあたりがまだ、しっくりこない。


5(55) 伊丹十三『問いつめられたパパとママの本』(新潮文庫)、新潮社、2005年。(古書)

「・・・私の若い頃にはそんなものはまだ発明されてなかったから、プラチックという言葉は、もっぱら文学的に使われておりましたね。
 『可塑的(プラチック)な精神』なんてね。
 ただし、これは変形して元へもどらない、弾性を失った精神、という意味ではないんだよ。
 思うように形作られる精神、柔軟な、感じやすい精神、ということなのです。
 われわれは、肉体的には、いつまでも弾性を失わず、精神的には、いつまでもプラチックでありたいものですな」(pp. 125-126)。


6(56) 乙川優三郎『霧の橋』(講談社文庫)、講談社、2000年。(古書)

時代小説。

「老いて一生を振り返ったときに、諸手を挙げて喜べる人などいないのじゃないですかね、必ずひとつやふたつの不幸に出会い不運にも巡り合う、その中にはうまく乗り越えられないものもあって、いつまでもしつこく心に残る、ですが、結局人間はいまの自分に満足がいくかどうかではないでしょうか」(p. 133)。

「惣兵衛はその場に佇み、まるで不思議なものでも見るようにじっと眺めた。竈の上の鍋から湯気が立ち、きりりと襷をかけたおいとが菜を加えてゆく。おいとが動く度に仄かな灯が揺れて、何とは言えぬ心地よい物音がする。その眼に映るのはこのうえなく平穏で罪のかけらもない光景だったが、惣兵衛にはひどく大切なものであるように思われた。
 一日の仕事を終えて、小僧らに飯を食わせ、さらには夫のために煮炊きする妻。煮炊きを終えたなら夫婦で料理をつつき、何とはなしに語り合う。至極ありふれたことかも知れぬが、惣兵衛が守ろうとしているのはそういうものかも知れなかった」(p. 198)。


ひとまず、ここまで。以後、貯めずに書いてゆくこと。

目指せ、年間111冊。

by no828 | 2008-02-03 22:56 | 人+本=体


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