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思索の森と空の群青

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2008年 02月 07日

信じて疑う

晴れ。

昨日のこと。

朝から上京して10時からの「国際教育協力日本フォーラム」@三田共用会議所に行く。
麻布十番駅2番出口を出たら雪がはらはらと舞っていた。

フォーラムは17時までの長丁場で、基調講演とパネルディスカッションから構成されていた。

そのフォーラムを通して思ったことを2つ書いておきたい。


ひとつは、「包括的な」=「表層的な」について。

パネルディスカッションのモデレーターの方も述べられていたが、昨日の議論はいずれも「包括的な(comprehensive)」であった。

わたしにとって昨日の「包括的な」とは、つまり、深まりのない議論であった、ということを意味する。
話を聴きながら、「包括的な」とは「表層的な」と同義の場合もある、と思ったわけである。

たしかに、「国際教育協力」あるいは「教育開発研究」は分野としては若い。
それゆえに「包括的な」議論が求められたし、求められて然るべきであった。

しかし、もはや「包括的な」議論に終始している時期ではない。
「包括的な」議論に含まれる個々の問題に取り組むべきである。問題間の関係性に留意しつつも、ある程度は個別に議論を深めてゆくべきである。教育学の下位領域の多様化に鑑みれば、そのような要請も認められるのではなかろうか(もちろん、専門分化しすぎているとの批判もあり、それには耳を傾けるべきであろう)。


もうひとつは、「信じて疑う」について。

昨日のフォーラムには、多くの実務家と研究者が参加していた。

しかし、議論は国際教育協力の方法論・技術論が主で、「学的態度」での発言が非常に少なかった、というのがわたしの印象である。

ここでの「学的態度」とは、「信じて疑う」という態度を意味する。

わたしには、フォーラムの参加者の大部分には国際教育協力および教育それ自体の重要性・必要性を「信じる」という姿勢はあったが、同時にそれを「疑う」ということがなかったように思われるのである。

だが、「疑う」という態度が欠落すれば、そこに残るのは「信じる」だけであり、それはすなわち「信じる」によってのみ成り立つ「宗教」と変わらなくなる。

「宗教」それ自体はあってよいが、「学問」が「宗教」になってはならない。

もちろん、わたしも国際教育協力および教育それ自体は重要であり、必要であると信じている。
が、同時にそれらを疑ってもいる。それは、疑うことが必要であるから疑っている、というよりも、疑わざるをえない、という感覚である。


「信じて疑う」という二律背反、そのぎりぎろのところを進んでゆくことが研究者には求められるのではないか。

昨日のフォーラムを経て、(また、5日の「爆問学問」を見て)そのような思いを一層強くしたのであった。

by no828 | 2008-02-07 19:23 | 思索


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