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思索の森と空の群青

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2008年 04月 14日

<わたし>が関与しない は <あなた>が関与しない を 意味しない

雨 のち 晴れ。

午前中に学外の先生にメール。文章選びに時間をかける。

そのあと「新自由主義」についての論文を1本読む。

「新自由主義」と「新保守主義」の親和性について、すっきり説明できるようになった。

ただ、それだけでは足りない。両者の共振関係からどのように教育とつなげて論じるか、教育学者はそれに取り組む必要がある。つなげ方は見えてきた。このテーマで1本論文を書くか、と思い立つ。が、それに時間をかけることができるか。悩ましいところである。

お昼を食べたあと書籍部に寄って本を1冊買う。

安冨歩『生きるための経済学 <選択の自由>からの脱却』日本放送出版協会(NHKブックス)、2008年。

サブタイトルにある<選択の自由>に惹かれて。以前ここに少し書いた「可能性の拡大」との関連があるのではないかと思って。

近代教育学、そして「人間開発 human development」では、「可能性の拡大」、あるいは「選択肢の拡大」を善として標榜するが、それでよいか。「序章 市場の正体」と「あとがき」を読むかぎり、それを考えるための手がかりが潜んでいるように思われた。

夕方、読書会のために「開発 development」についての論考を読む。

18時30分から学類生たちとその読書会。

思考の躍動感を感じる、議論が楽しいと思える会であった。

口から先に思考が始まる、というようなことがある。それまで考えていなかったことが、話しているうちに浮んできてそれを口に出す、それによって思考が動く。そのようなことが起こる。

たとえば、国境線を越えた教育関与のありようについて。

「外部者」とか「よそ者」とか呼ばれる人間が、一般に「途上国」と呼ばれる国に生きる人間に教育を通した関与を行なう。
ここで、関与を行なうべきか/行なうべきでないか、そのような論点が設定される。
「行なうべきでない」と回答されることがある。
そこでは「外部者」「よそ者」である<わたし>は関与をしないことになる。
しかし、<わたし>が関与しないとしても、「内部者」(「よそ者」の対語は何?)である<あなた>ないし誰かが関与する。
<わたし>が関与しない、は、<あなた>が関与しない、を意味しない。<わたし>が関与しなくても<あなた>は関与する。<わたし>ではない誰かが・何らかの関与をする。
だから<わたし>が関与しないとき、<わたし>は「<あなた>が/誰かが関与する」ことを支持することになる。「傍観」は「現状追認」を意味する、少なくとも消極的には意味する。
したがって、<わたし>が直接的に関与していなくとも、あるいは関与しないことによって、<あなた>/誰かを通して間接的に関与することになる。
それゆえ<わたし>にも「関与しない」という選択肢はない。
以上から、議論は「どのような関与ならばよいか/よくないか」という方向に進むことになる。が、そのような方向性しかないのか。

というところまで来る。

答えはないのかもしれない。が、「答えがない」は「議論しなくてよい」を意味しない。

では、自分のなかで、他者とのあいだで、どう議論すればよいか。

読書会は21時頃まで。


@自室

by no828 | 2008-04-14 23:37 | 思索


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