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思索の森と空の群青

onmymind.exblog.jp
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2008年 06月 13日

私的な声の公共化 わたしの声を聴いてくれる他者 その他者は本当にわたしの声を聴いているのか

晴れ

今日は研究室に誰も来ない。理由はわからない。

静かに研究できると思っていたら、電話が頻繁に掛かってくる。

もちろん、出ない。電話は研究を妨害するもの以外の何ものでもない。

それにしても掛かってくる。

そういうわけで、中央図書館に移動して心を落ち着かせて論文を読む。

そうして出会った次の文章。


しかし、「私的な声を公共化する」とはいったい何を意味するのだろう。公共の場で声のかぎりに訴えたところで、わたくしの声に応答してくれる者がいなかったなら、それはわたくしのモノローグにとどまり続けるだろう。〔……〕だとすれば、わたくしの私的な声が真に公共化されるとは、すなわち、「他者」がそれに対して、わたくしの声に対して/わたくしの苦痛に対して応答してくれることだ。わたくしの呟きが、呼応する他者を得ることで、モノローグがダイアローグとなることだ。もし民主主義というものが公共領域において異なる声をもつ者たち、すなわち他者のあいだの応答可能性、対話の可能性を保証するものであるとすれば、この現実的な「他者」の存在こそ民主主義の必須の要件であると言えるだろう(岡真理「母の呟き、あるいは『市民』ならざる者の民主主義」、『月刊フォーラム』9(8)、1997年、p. 60。強調は引用者)。


昨日書いたこととも感応しているような気がする。

改造バイクの彼/彼女らの声がモノローグになってはいないか。
改造バイクの彼/彼女らの声を誰か聴こうとしているか。
「うるさい」といって耳を塞いではいないであろうか。
耳を塞ぐのはうるさいのだから仕方がないのか。
耳に当てた手を離してもらうためには、「聴いてもらえるような声」を発しなければならないのか。
「聴いてもらえるような声」とは何か。
その時空間に支配的な言説に乗れということか。
しかし、彼/彼女らの声が支配的な言説に回収された時点で、それはもはや彼/彼女らの声ではないのではないか。
わたし(たち)は彼/彼女らの声を聴くことができるのか。

こうして、いまのわたしの研究課題に戻ってくる。


それにしても、隣の研究棟から谷村新司の「昴」が聴こえてくる。その前は Kiroro の「未来へ」。「ほら、足元を見てごらん」。なぜだ。窓を開けているからとはいえ、研究棟を越えてわたしの耳に届いてくるということは相当の大音量で流しているということである。彼/彼女らは何を望んでいるのか。


@研究室

by no828 | 2008-06-13 20:18 | 思索の森の言の葉は


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